2026年2月4日水曜日

​2026年2月、歌ってみた界隈の空気感 ― 反応の薄さが生む停滞と、その構造的背景 ―

2026年2月現在、歌ってみた制作を続けている人たちのあいだで、

どこか重たい空気が共有されているように感じます。


それは「ブームが終わった」と言い切れるような明確な変化ではありません。

けれど、投稿しても手ごたえがない、

思ったほど反応が返ってこない、

そんな感覚が静かに広がっているのは確かです。


歌ってみたの投稿数自体は、減っているわけではありません。

むしろ、数字だけを見れば回復傾向にあります。


それにもかかわらず、多くの制作者が感じているのは、

「出しても届かない」という感覚です。


時間をかけて練習し、

録音し、

ミックスを整えて投稿した。


それでも再生数は伸びず、

コメントもほとんどつかない。


この経験を重ねることで、

「自分は思ったより下手なのではないか」

という疑いが生まれやすくなります。


しかし、問題は個人の能力だけにあるわけではありません。


現在の歌ってみた界隈では、

純粋な歌唱力や完成度よりも、

企画性や話題性、ショート動画との連動などが

再生数や拡散に大きく影響する構造になっています。


丁寧に歌うことそのものが否定されたわけではありませんが、

それだけでは評価に結びつきにくくなっているのが実情です。


真面目に向き合っている人ほど、

努力と結果のズレに疲れてしまいやすい環境だと言えるでしょう。


さらに、技術的な悩みも空気感を重くしています。


原曲キーが合わず、高音が苦しくなる。

補正をかけた結果、声が機械的に聞こえてしまう。

完成した音を聴いて、

自分の声なのに、どこか他人事のように感じてしまう。


こうした違和感は、

歌ってみたを「楽しい表現」から

「不安を伴う作業」へと変えてしまいます。


加えて、AI音楽やAIカバーの存在も、

人が歌う意味を相対化しています。


短時間で一定水準の音が生成される環境の中で、

自分の歌をどう位置づければいいのか。

その問いに、明確な答えを持てないまま

立ち止まってしまう人も少なくありません。


ただ、この空気感を

「歌ってみたの終わり」と捉えるのは早計です。


むしろ今は、

歌ってみたが万能な成功ルートだった時代から、

数ある表現手段のひとつへと

役割が移行している途中だと考えるほうが自然です。


期待が大きかった分、

その変化は「楽しさが減った」「熱量が下がった」

という感覚として表れやすくなっています。


環境が変わった。

評価の仕組みが変わった。

視聴のされ方が変わった。


まずは、その事実を整理して受け止めること。

それだけでも、

歌ってみたとの距離感は少し整いやすくなります。


歌ってみたは、今も大切な表現です。

ただし、以前と同じ感覚で向き合うと、

苦しさが先に立ってしまう場面が増えています。


だからこそ、

現在の構造を理解したうえで、

無理のない関わり方を探していくことが重要だと感じています。


神宮前レコーディングスタジオでは、

流行や数字だけでは測れない部分も含めて、

声や表現と向き合う時間を大切にしています。

https://www.elekitel.net/


この文章が、

「自分だけが感じているわけではない」と思える

ひとつの整理材料になれば幸いです。

2026年1月27日火曜日

​音声文化の分岐点に立つ日本 ―ラジオの終焉ではなく、「声の居場所」が再編される時代へ

近年、日本の音声メディアを取り巻く環境は、静かですが大きな転換点を迎えています。


民間AMラジオ局の運用休止やFM転換、radikoなどIP配信への移行が進み、「AMラジオはこの先どうなるのか」という問いを耳にする機会も増えてきました。


これは単なる技術的な問題や、放送局の経営判断だけの話ではありません。

日本における「音声文化そのもののあり方」が、次の段階へ移ろうとしている兆しだと捉えることができます。


 


アメリカでは、ラジオはいまも生活の音です


一般には「アメリカではポッドキャストが主流になった」と語られることが多いですが、実際には少し違った構図があります。


アメリカでは現在でも、AM/FMラジオは音声メディアの中心的存在です。

特に車社会という背景もあり、通勤や移動の時間にはラジオが自然に流れている環境が維持されています。


ラジオは「意識して選ぶメディア」というより、そこにあって当たり前の生活音です。


その一方で、ポッドキャストはラジオを置き換えた存在ではなく、役割を分け合う存在として広がりました。

ラジオが「いま起きていること」を伝える音だとすれば、ポッドキャストは「自分で選び、じっくり聴くための音」です。


この二層構造が、アメリカの音声文化を支えています。


 


日本のラジオ文化は、もともと性格が違います


日本の音声文化は、アメリカとは成り立ちが異なります。


通勤の主役は電車であり、移動中はスマートフォンによる視覚情報が中心です。

ラジオは常に「好きな人が選んで聴くメディア」という位置づけでした。


深夜ラジオを楽しむ人、特定の番組やパーソナリティの声を大切にする人。

日本のラジオ文化は、熱量の高いリスナーに支えられてきた文化でもあります。


そのため、AMラジオという仕組みが縮小していくことは、文化の断絶というよりも、役割の引き渡しとして受け止める方が自然です。


FM放送やradiko、IP配信といった代替手段はすでに定着しており、音声そのものが消えるわけではありません。


 


日本におけるポッドキャストの位置づけ


では、日本でポッドキャストはどのような存在になっていくのでしょうか。


アメリカのように、社会全体を覆う主流メディアになるかといえば、同じ道をたどる可能性は高くありません。

しかし、それは否定的な意味ではありません。


日本のポッドキャストは、もっと静かに、個人的な距離感で広がっていくと考えられます。


画面を見ることに疲れた時間帯。

移動中や作業中、あるいは夜のひとりの時間。


そうした場面で、声だけがそっと寄り添う。

情報は過剰に主張せず、語りは落ち着いていて、文脈を大切にする。


日本のポッドキャストは、「音声版のテレビ」ではなく、「生活の余白に置かれる音」として定着していく可能性があります。


 


声は、どこで残されていくのか


AMラジオの縮小は、「声を届ける場所」が変わることを意味します。


これまで声は、放送という大きな仕組みの中で扱われてきました。

しかし今後は、より小さな単位で、より柔軟な形で残されていきます。


ポッドキャスト、ナレーション、対話型コンテンツ、記録音声。

音楽以外の音声表現も含め、「声をどう残すか」という問いが、現実的なテーマになっています。


スタジオで録音され、整えられ、編集され、必要な人のもとへ届く。

そうしたプロセスが、放送局の外側でも当たり前になりつつあります。


 


音声文化は終わらず、再編されていく


AMラジオが姿を消しつつある今、日本の音声文化は終わりに向かっているわけではありません。


むしろ、音声は次の段階へ移行しています。


大きな声よりも、届く声。

即時性よりも、積み重ね。

消費される音よりも、残される音。


日本独自のテンポと感覚で、音声文化は静かに再編されています。


こうした変化を、日々の制作や録音の現場から見つめ続けている場所のひとつが、神宮前レコーディングスタジオです。

公式サイトでは、音楽制作だけでなく、声を記録し残す取り組みについても情報を発信しています。

https://www.elekitel.net/