2026年6月17日水曜日

無料のスナックを求める者たち——ファンダム文化の光と、同意なき帰属の暴力

 

日本には、コミュニケーションに対価を払う文化が昭和の時代から根づいています。その最も純粋な形態が、スナックです。

スナックの店舗数は全国でコンビニを大きく上回ると言われています。それほどの規模でありながら、情報誌はほとんどなく、食べログにもジャンルが存在しない。広く存在するのに、見えない。スナックという場は、その成り立ちからして独特の位相にあります。

スナックを支えているのは、酒やカラオケという商品ではありません。ママという人格への帰属です。ボトルキープはその象徴で、自分のボトルを店に預けることは「この店に属している」という物理的な証明として機能します。現代のサブスクリプション型ファンクラブ経済が、デジタル会員証や限定コンテンツで実現しようとしていることを、スナックは空間と人格によって昭和の段階ですでに先行していました。

常連になりたいという欲望の核心には、承認欲求と帰属意識があります。職場でも家庭でもない場所で、自分の名前を呼ばれ、自分のボトルが棚に並んでいる——その安堵は人間の普遍的な欲求に応えるものです。スナックはその欲望に、正当な回路を与えてきました。チャージ、ボトルキープ、カラオケ——これらはすべて「コミュニケーション労働」への対価を支払うという、明示的な合意の上に成り立っています。

ここが決定的に重要な点です。スナックのコミュニケーションは、双方の合意によって成立する有償の関係性です。

同じ欲望が、まったく異なる文法で動いている場があります。画廊です。

「ギャラリーストーカー」と呼ばれるのは、画廊や展覧会で若い女性作家に執拗につきまとう人たちのことです。長時間居座り、個人情報を聞き出し、食事に誘い、作品購入を口実に親密な関係を求める——筆を折る作家が出るほどの深刻な被害が、長年にわたって美術業界の内側で黙認されてきました。

この行為はこれまで「無料のキャバクラを求める行為」と表現されてきました。しかし本稿は、より正確な言葉として「無料のスナックを求める行為」と呼びます。彼らが求めているのは、キャバクラ的な「隣に座ってもらうサービス」ではなく、スナック的な「常連としての帰属関係」だからです。名前を覚えてもらうこと、特別な存在として認められること、繰り返し訪れることで距離を縮めること——彼らは対価を払わずに、スナックの常連になろうとしています。

問題をさらに深刻にしているのは、美術業界の権力構造です。コレクターや評論家、キュレーターは作家の将来を左右しうる立場にあります。多くの作家はフリーランスで、組織的な保護がありません。断ることがキャリアのリスクになりうる状況の中で、在廊する作家は「断れない接客」を強いられています。スナックのママが自らの意志で対価を受け取って立つカウンターとは、根本的に異なります。

SNS時代に入って、問題は空間的・時間的な拡張を遂げました。かつて展示空間内にとどまっていた接触が、フォローとDMによって境界を失い、在廊は「24時間営業のスナック」と化しつつあります。一方でSNSは、長く沈黙を強いられてきたこの問題を可視化する手段にもなりました。画廊による迷惑行為禁止の公式宣言、美大生有志による署名活動——ファンダムとストーキングの境界をめぐる問いが、同一の回路の上で同時進行しています。

2025年にカスタマーハラスメント防止措置を義務づける法律が成立し、2026年10月の施行が予定されています。重要な前進ですが、この法律は雇用関係のある従業員を守る枠組みです。フリーランスの作家も、女性店主が一人で営む個人書店や古書店の店員も、その保護の外に置かれたままです。本を買う場所で、本ではなく人との関係を求めてくる客——その構造は画廊での問題と本質的に同じであるにもかかわらず、小規模な個人経営の現場ほど制度の網からこぼれ落ちています。

スナック文化を支えてきたのは、コミュニケーションへの対価と、双方の合意という二つの原則です。対価も払わず、相手の同意も確かめず、帰属関係を一方的に要求することは、文化の誤読であるとともに、他者の労働と尊厳を無償で収奪しようとする行為です。

どのような空間にも、その場固有のルールがあります。画廊は作品を見る場であり、書店は本を買う場です。そこに立つ人間は、会話を売っているのではありません。

スナックの常連になりたいのであれば、スナックへ行けばいい。
そこには対価を受け取る準備のある、素晴らしいママたちがいます。

2026年6月12日金曜日

デジタル生成物をアナログの論理で管理することの根本的な矛盾 ——JASRACのAI楽曲ガイドラインが示す制度設計の限界

JASRACが2026年6月、生成AIと音楽著作権に関するガイドラインを公表しました。著作権管理団体として立場を明示したこと自体は評価できます。しかし、このガイドラインには根本的な問題があります。問題の本質は、動くのが遅かったというタイミングではありません。「何を前提に設計されているか」という、制度設計の思想そのものにあります。

■ ガイドラインの中身と、その構造的な欠陥

JASRACのガイドラインが示す管理基準の核心は、「人間の創作的寄与の有無」という線引きです。AIが自律的に生成した歌詞・楽曲は管理対象外とし、歌詞か楽曲の一方を人間が創作した場合はその部分のみ管理する、という内容です。

一見明快に見えますが、この基準の確認手段は「クリエイター本人の自己申告」のみです。JASRACにはAI生成かどうかを技術的に検証する手段がなく、委託者の誓約が制度の全体を支えています。

デジタルで秒単位に大量生成される制作物を、人間の誠実さというもっともアナログな担保で管理しようとしている——ここに制度設計の根本的な矛盾があります。

「人間の創作的寄与」の定義自体が曖昧であることも問題です。プロンプトに独自性があれば寄与とみなされるのか、生成物の一部を編集すれば足りるのか。その境界線は現行の解釈では明確ではなく、グレーゾーンが大幅に広がります。

注目すべきは、JASRAC自身が2024年に文化庁へ提出した意見書の中で、このガイドラインの実効性に疑義を呈していることです。「現行の法的手段にどの程度実効性があるのかを検証した上で、必要に応じて新たな立法措置も視野に入れた検討を継続すべき」——自ら構築した制度の限界を、自ら認めています。

■ 著作権制度そのものの「前提崩壊」

この問題をJASRACの対応の失敗として捉えることは、本質を見誤ります。著作権法という制度そのものが、根本的な前提の書き換えを迫られているからです。

現代の著作権法の原型は、1710年にイギリスで制定されたアン法にさかのぼります。その背景には、1450年頃のグーテンベルクによる活版印刷術の確立があります。著作権制度は、「複製にコストがかかる」という技術的条件のもとで設計されました。複製するためには版を組む費用、印刷機を動かす労力、物理的な流通網が必要でした。著作権とは、「複製の困難さ」を前提に設計された保護制度だったのです。

デジタル技術はこの前提を段階的に解体してきました。録音技術がコピーを容易にし、インターネットが流通コストをゼロにし、生成AIが「制作」のコスト自体をゼロに近づけました。

著作権制度の根拠となってきた前提が消滅した今、JASRACのガイドラインは崩壊した地盤の上に誠実に積み上げられた建物です。建物の構造ではなく、地面そのものが変質してしまったのです。

■ アナログへの回帰——その意義と限界

この状況の前に、ひとつの根源的な問いが浮かびます。一次制作物を肉体とアナログ環境で発表しない限り、この問題は本質的に解決しないのではないか——という問いです。

思想家ヴァルター・ベンヤミンは1930年代の論考「複製技術時代の芸術作品」において、機械的複製が芸術作品から「アウラ」——「いま」「ここ」という一回性においてのみ存在する権威——を剥奪すると論じました。ライブ演奏がその場で奏でられるという事実、肉声がその瞬間にしか存在しないという事実は、デジタル生成物が原理的に持ちえない「人間性の証明」を内包しています。

その意味で、アナログへの回帰は単なる懐古ではありません。制度の不在に対する倫理的な抵抗として、重要な意味を持ちます。

しかし限界もあります。アナログで発表された一次制作物は、デジタル化された瞬間に再び無防備になります。ライブ音源は録音され、手書き楽譜はスキャンされる。起点の純粋性は担保できても、流通・複製・引用の連鎖は制御できません。

さらに、アナログへの回帰もまたJASRACの自己申告制と同じ「人間の誠実さへの依存」という構造を持っています。制度が人間の良心に委ねられている限り、その制度は原理的に脆弱です。アナログへの回帰は倫理的抵抗として意味を持ちますが、制度的解決にはなりえません。

■ デジタル問題はデジタルで解く——ただし利権に注意

技術的な方向性として、すでにプロトタイプは存在します。C2PAと呼ばれる国際技術規格は、AdobeやMicrosoft、Google、OpenAIなど多数の企業が参加し、デジタルコンテンツの生成元・変更履歴を暗号署名付きで記録する仕組みです。Google DeepMindのSynthIDは、AI生成コンテンツに人間には識別できない電子透かしを埋め込む技術で、音楽・動画・テキストへの対応も進んでいます。EUでは、AI生成コンテンツへのラベル付けを法的義務とする規制の本格適用が2026年8月に迫っています。

「事後的な検知」ではなく「生成時点での証明」を埋め込む発想——これはデジタル生成物をデジタルの論理で管理するという原則に沿っており、方向性として正しい。

しかしここに、別の問題が潜んでいます。コンテンツ認証の標準を策定・維持し、証明書を発行する主体は、構造的な独占に近い位置を得ます。標準化プロセスはすでにAdobe、Microsoft、Googleといった巨大プラットフォーマーが主導しており、後発の参入は困難です。

「タグを発行する権限」「タグを解析する技術」「認証基盤を運営する主体」——この三つを誰が握るかによって、新たな巨大な利権構造が生まれる可能性があります。問題の舞台が、ひとつの管理団体からグローバルなプラットフォームの寡占へと移行するだけかもしれないのです。

■ 問いの深さを可視化したガイドライン

JASRACのガイドラインが機能しない根本的な理由は、担当者の能力や意欲の問題ではありません。著作権制度が前提としてきた「複製のコスト」という地盤が消滅したことへの、制度的応答がいまだ確立されていないからです。

デジタル生成物の管理は、デジタルの論理で行われなければ機能しません。しかしその「デジタルの論理」を誰がどのような主体として担うのかが解決されない限り、技術的解の整備は新たな問題を生みます。

問題の解決には、技術・法制度・国際標準・経済構造のすべてが連動した、根本からの制度設計の再構築が必要です。JASRACのガイドラインが果たした貢献は、答えを出したことではなく、問いの深さを可視化したことにあります。

2026年6月11日木曜日

誠実さの条件——2026年6月、その意味はどこへ向かったか

 

「誠実な人」と聞いて、あなたはどんな人物を思い浮かべますか。

嘘をつかない、約束を守る、感じがいい——多くの人がそういった像を描くと思います。では、言いにくいことを相手に直接伝える人は、誠実でしょうか。意見が違えば正面からぶつかる人は、誠実でしょうか。

その問いへの答えが、世代によって、SNSの内側と外側とで、これほど違ってきたのかと思い知らされる時代に、私たちはいます。


信頼の地盤が崩れている

まず現実を確認しておく必要があります。

2025年の国内調査では、政治家を「信頼する」と答えた日本人は全体の約2割。「政治家は腐敗しており、強い指導者が必要だ」という問いには半数以上が同意しています。5〜10年後の家計が「悪くなる」と答えた人が過半数を超え、日本経済への見通しも6割以上が悲観的です。

これは政治の問題だけではありません。政府・メディア・組織・言葉、あらゆる制度への不信が社会の底に静かに積み重なっています。誠実さが機能するためには、「相手の言葉を信じうる」という最低限の地盤が必要です。その地盤が今、広範囲にわたって掘り崩されています。


「見ること」が「信じること」でなくなった時代

信頼の侵食に追い打ちをかけているのが、ディープフェイクと生成AIの問題です。

2025年の調査では国内外の企業の6割以上が、過去12か月以内にディープフェイク攻撃を経験したと報告しています。映像が本物であることの証明も、声が本人のものであることの確認も、もはや容易ではありません。「見ること」が「信じること」の根拠でなくなりつつある、という認識論的な転換が現実として起きています。

かつての選挙でフェイク情報が交錯し結果を左右したとされる事例は、この問題が民主主義の実際の機能に直結していることを示しています。「誠実に伝える」という行為が、発信者の内面の問題だけでなく、「その誠実さをどう証明するか」という受信者との間の問題になっています。


SNSが「誠実さ」を書き換えた

しかし問題の核心は、技術だけにあるわけではありません。より日常的な場所で、誠実さの概念そのものが書き換えられています。

現在の若い世代の多くは、SNSの評価が自分の気分に直結する環境の中で育ちました。ある調査ではZ世代の約72%が「SNSでの評価が自分の気分に影響する」と回答しています。「否定・押しつけ・比較」を強く忌避し、「想定外」そのものをリスクとして避ける。これは個人の性格の問題ではなく、プラットフォームが長年かけて人々の内面に刻み込んできた行動の文法です。

「いいね」を最大化する発信が奨励され、摩擦や反論は可視化されてペナルティを受ける構造の中でコミュニケーションを続けていれば、「誰かを傷つけないこと」と「誠実であること」がやがて同一視されるようになります。

傷つけないために本音を言わない。否定しないために議論を深めない。炎上しないために少数意見に同調する。これがSNSの設計が生み出した「誠実さの文法」です。


摩擦を引き受けることが、誠実さだった

私は1965年生まれです。その時代に育まれた「誠実さ」の感覚には、今とは異なる前提がありました。

相手と正面から向き合い、威圧感なく議論をする。相手が言わんとしているところを思い計りながら、意見が違えば率直に伝える。少数意見であれ民主的に尊重し、多数意見であっても疑う。言いにくいことは配慮しながらも、直接本人に伝える。遅刻のような些細な行為の中にも、相手の時間を一個の人格として尊重する姿勢を見る。

これらはすべて、「他者を尊厳ある存在として扱う」という思想の実践です。そしてその誠実さには、関係の中にある緊張を厭わないという覚悟が伴っていました。本音を伝えれば相手が傷つくかもしれない、議論が深まれば自分の考えが崩れるかもしれない——そのリスクを引き受けることが、誠実さの核心でした。

カントは「誠実さは条件付きであってはならない」と説いています。安全な場合にだけ、利益になる場合にだけ誠実であるのは、誠実さとは呼べない、と。その原則は今も変わらないはずです。


「虚偽ではない」ことと「誠実である」ことの距離

誠実さをめぐる哲学的な議論の中に、こんな問いがあります。「虚偽ではない言明を用いながらも、人を誤解させること」は誠実と言えるのか——と。

SNS上での「戦略的な自己演出」や「言わないことの選択」は、嘘ではありません。しかし誠実かと問われると、答えに詰まります。言葉が体験から離れるとき、それはどれほど正確であっても、誠実さの手触りを失います。

AIがあらゆる情報を流暢に語れる時代に、「何を知っているか」より「何を体験したか」が問われるようになっているのは、その感覚が広く共有された結果でもあります。体験に根ざさない言葉への不信は、すでに社会の広い層に静かに広がっています。


疲弊の先に、問い直しが始まっている

ただし、希望がないわけではありません。

2025年はSNS登場以来初めて、Z世代のSNS利用時間が「伸びなくなった」転換点だったと指摘されています。演出を排した「素の自分」を共有するプラットフォームへの支持、「映えではなくリアル」へのシフトは、承認欲求疲れの裏返しとして読めます。疲弊は、問い直しの始まりです。


「若者が変わった」では済まない問題

誠実さの条件は確かに変わっています。しかしその変化の正体を「若者が変わった」という言葉で処理してしまうのは、早計です。

誠実さを表現する「場」そのものが変わったことの帰結として、今の状況があります。SNSというプラットフォームの報酬構造は、自然発生したものではありません。誰かが、何かを、どこかの時点で選んだ結果です。

2026年6月現在、誠実さの問いは個人の内面の問題である以上に、私たちがどのような「場」の中でことばを交わし続けるのかという、構造への問いとして立ち現れています。その問いに向き合うこと——それが今日、誠実さの第一歩なのかもしれません。


 

第三項の消失——AIと「粗野な言葉」の対立が示す、文化的終焉の輪郭

SNSを眺めていると、意図的に荒削りな、ときに攻撃的ですらある文体のテキストが増えてきたことに気づきます。書いた人がそれを意識的に選んでいることは、文章の端々から伝わってきます。AIが生む「整った言葉」への対抗として、粗さを武器にしている。そういう意志が透けて見えます。

一見すると、これは自然な動きです。カルチャーがあればカウンターカルチャーが育つ。歴史はそうやって動いてきた、と言いたくなります。

でも、ここには深刻な問いが潜んでいます。

「整っていない=人間的」という転倒

まず、前提を整理する必要があります。「整っていないこと」は「人間的であること」とイコールではありません。整った文章に思考が宿ることもあれば、粗野な文章が思考を欠いていることもある。粗さと人間性は、別の話です。

その区別が失われるとき、批評眼はアレルギー反応に成り下がります。

さらに深刻なのは、この粗野な言葉が、平和主義や反戦といった本来「人間の条件」に関わるはずの問いを、右からも左からも、イデオロギー攻撃の弾薬として使っていることです。平和を望む感情は本来、右も左も持ちうるものです。それが「どちら側か」の識別記号になった瞬間、問いの深さは失われます。

文化の成長は「三項構造」を必要とする

文化の歴史を振り返ると、カウンターカルチャーが意味を持ったのは、それが単なる反動ではなかったからです。

第一次世界大戦後の廃墟から生まれたダダイズムは、純粋な否定でした。しかしその徹底した否定は「では、何があるのか」という問いを産み、やがてシュルレアリスムという新しい文化へと結実しました。この移行には年単位の時間と、思想を言語化し共同体を形成する労働がありました。

逆の例がワイマール共和国の崩壊です。バウハウス、ブレヒト、表現主義——あの時代のドイツが育てた批判的文化は、ナチズムという「否定しかない」暴力的な反動によって圧殺されました。ナチズムが産んだのは新しい文化ではなく、破壊と沈黙でした。

純粋な否定と攻撃性は、文化を産みません。文化の成長には三つの項が必要です。

カルチャー → カウンターカルチャー(否定+問い)→ 熟成期 → 新しいカルチャー

この連鎖の中で「熟成期」と「肯定的な問い」が不可欠です。

なぜ現在のカウンターは「第三項」を産めないのか

現在のSNS上の粗野な言葉は、この連鎖の三項目を産む条件を、構造的に持ちえていません。

速度が熟成を不可能にしている アルゴリズムは感情的エンゲージメントを優先します。コンテンツは消費され、数時間後には忘れられる。熟成の時間がありません。これは自然発生ではなく、誰かが経済的動機のもとで選んだ設計の結果です。

肯定的ビジョンがない 「AIではない」という否定しかありません。「こうあるべきだ」という問いを持たない対抗から、新しいものは産まれません。

対抗が構造に吸収されている アルゴリズムは攻撃的なコンテンツを優先して拡散します。粗野なテキストは、抵抗しようとしているプラットフォームによって、むしろ積極的に増幅されています。対抗のエネルギーが、対抗する相手の燃料になっている。

誰が、何を、選ばなかったのか

この構造はなぜ、この時点で生まれたのでしょうか。

プラットフォーム企業は、感情的エンゲージメントをビジネスモデルの中心に置くことを選びました。政治的言説の担い手たちは、対話よりも武装を選びました。そして私たちは、思考の時間を手放すことを、あまりにも静かに受け入れてきました。

ハンナ・アーレントは思考の放棄が悪を可能にすると論じました。紋切り型の言葉しか持てなくなった人間の危うさを「悪の凡庸さ」と呼んだ彼女の洞察は、今日のSNS言説に奇妙なほど重なります。思考の時間を手放した言葉は、悪意がなくても暴力として機能しうる。

問いを開いたまま

文化の弁証法が産む第三項は、現時点では見えません。それを「文化的終焉」と呼ぶことはできます。

でも、「見えない」ことを「存在しない」こととは、まだ思いたくないのです。

ダダが炎上していたとき、シュルレアリスムはまだ誰の言葉にもなっていませんでした。バウハウスが解散を命じられた日、その思想を継ぐ者たちはすでに世界各地に散らばり始めていました。

速度と攻撃性の外側で、静かに問いを育てている人々はいるはずです。その問いはおそらく、SNSの速度には乗りません。アルゴリズムには増幅されません。だからこそ、今は見えにくい。

見えにくい場所で産まれつつあるものに、目を凝らすことをやめてはいけないと、私は思っています。

歌ってみた文化の現在地 ——ニコニコ動画・VTuber・世代交代が問うもの

 

ボーカルレコーディングの現場は、文化の変化を数字より早く感じ取ることができる場所です。スタジオにやってくる人々の顔ぶれ、持ち込まれる「目的」の変化——そこに耳を澄ますと、歌ってみた界隈の現在地が静かに浮かび上がってきます。


ここ数年でひとつの変化を感じています。スタジオを使う人の総数が変わったわけではありません。ただ、かつて多かった歌ってみた界隈の若い活動者——初めてスタジオの扉を開ける緊張を全身にまとい、録音という行為そのものに意味を見出していたあの層——の姿が、以前よりも少なくなっています。代わりに増えているのは、ボーカルスクールの講師が生徒募集のためのデモ動画を制作する、あるいはSNSや短尺動画向けのサビだけの録音を依頼するといった、既存の音楽発表構造の中での専門的・業務的な利用です。


この変化は、スタジオの景気とは別の話です。問いたいのは、ある種の「意志的な音楽行為」——夢想から始まり、技術を獲得し、世界に向けて声を届けようとする一連の衝動——が、この界隈においてどのように変質しつつあるか、ということです。



ニコニコ動画と「歌ってみた」の共依存関係


「歌ってみた」という言葉は、2007年5月にニコニコ動画がそれをカテゴリタグとして正式採用したことで、文化的な固有名詞になりました。この出自が示すことは重要です。この文化はプラットフォームによって命名され、プラットフォームによって可視化されてきたのです。


2024年6月のランサムウェア攻撃によるニコニコ動画の約2カ月にわたる停止は、その事実を改めて照らし出しました。文化的な行為そのものが失われたわけではありません。しかしその文化が「見える場所」が消えたとき、何が起きるかが明確になりました。投稿できない、ランキングに載らない、コメントが流れない——それはただの機能停止ではなく、この文化が生命維持のために依存していたインフラの喪失に等しい出来事でした。


2025年に実施されたランキングシステムの大幅改変でも同様のことが起きました。「歌ってみた」「VOCALOID」タグランキングへのアクセスが悪化したとして、ユーザーから強い批判が集まり、運営が修正対応に追われました。プラットフォームの設計がすなわち文化の可視性の設計であるという事実が、ここでも浮き彫りになりました。アルゴリズムを変えることは、誰の声が届き、誰の声が届かないかを変えることです。


2024年8月の復旧以降、歌コレ(歌ってみたCollection)は2026年春も開催を継続しており、次回秋の開催は9月24日から28日に決定しています。17年以上この界隈を観測し続ける「週刊歌らん」の筆者が指摘するように、ニコニコはいまも新しい才能を発掘するインキュベーターとして機能しています。しかし国内の動画プラットフォーム利用状況を見れば、ニコニコ動画の利用率はYouTubeの9割超とは比較にならないほど小さい。文化の「発見の場」としてのニコニコが機能し続けているとしても、その文化の主たるリスナー層はすでにYouTubeにいるのです。



担い手の世代交代——20代後半〜30代前半が主軸に


現在、この文化を最も濃密に支えているのはどの世代でしょうか。現場での観察と界隈の動向を照らし合わせると、20代後半から30代前半の女性が主軸になっているという印象が強まっています。


この印象には必然があります。「歌ってみた」がニコニコで産声を上げた2007年前後、隆盛期である2010年代前半に10代を過ごした世代が、いまちょうどそのゾーンに差し掛かっています。彼女たちにとって、コメントが画面を流れ、好きな歌い手の新着動画を心待ちにし、マイリスト登録という行為に意味を見出した経験は、単なる思い出ではありません。自分のアイデンティティの基層を成す体験として、現在進行形でこの文化と関わり続けています。文化の「記憶の持ち主」が、そのまま文化の「現在の担い手」でもある——これは、ある文化の成熟を示すと同時に、更新の困難さをも示しています。


一方、10代後半から20代前半の層の流入が、明らかに細くなっています。複数の調査を見ると、現在の10代が音楽に関して熱狂している対象は、K-POP、アニメタイアップ曲、TikTokのダンス動画で共有されるヒット曲であり、歌い手・歌ってみた文化への言及はほとんど現れません。動画プラットフォームの利用率こそ高いものの、長尺動画を腰を据えて視聴し、投稿者を「推す」という継続的な関係性を結ぶ文化的行動は、タイムパフォーマンス重視の時間感覚とは構造的に噛み合いにくいのです。


この世代との乖離は、単なる好みの問題ではありません。「歌ってみた」という行為は、楽曲を選び、カラオケ音源を用意し、録音し、ミックスし、動画を作り、投稿し、コメントを通じてリスナーと対話するという、時間と技術と意志の総体です。「スマートフォンで手軽にできる」というイメージが流通していますが、未経験の若いシンガーが独力でプロに近い音質を確保することは容易ではありません。参入の手続きが簡略化されたように見えて、実は参入を動機づける文化的な重力が弱くなっている——そちらの問題のほうが、より深いところにあるのかもしれません。



歌い手・VTuberのキャリアパスと、その現実


「歌ってみた」を起点にした成功の物語は、今もはっきりと存在します。歌い手グループ「いれいす」は2022年のメジャーデビュー以降、武道館、ドーム、そして2025年夏の全国アリーナツアーで9万人を動員するに至りました。「吉乃」は2024年秋クールにアニメ2作品の主題歌を同時担当するという異例の形でメジャーデビューを果たし、ホロライブ所属の星街すいせいは2024年にさいたまスーパーアリーナでのライブを実現し、代表曲「ビビデバ」は2024年末時点でYouTubeに約9,800万回の再生数を記録しています。


しかし、こうした成功例は界隈の最も明るく照らされた部分です。2025年時点でVTuber・Vライバーの総数は5万人規模にのぼるともいわれますが、個人勢でデビューした活動者の多くは年収10万円にも満たないのが実態です。収益ゼロで活動を続けている人は珍しくありません。


構造的な問題も根深い。VTuber・VSinger事務所の多くは、合格後の収益分配率を外部に開示しません。タレント側が合理的にリスクを判断できる情報が与えられていない状況は、業界全体の信頼性を損ない、才能ある活動者が参入をためらう一因になっています。大手事務所からの相次ぐ主要メンバーの活動終了が2024年に話題になった背景にも、こうした構造への不満があったと見られています。


さらに東京集中という問題があります。VSinger事務所の大多数が東京に拠点を置いており、リアルライブやスタジオ収録が主要収益源となるビジネスモデルでは、東京圏外のタレントは物理的・経済的に不利な立場に置かれます。インターネットが「どこにいても届けられる」可能性を開いたはずの文化が、ビジネス構造においては旧来の東京一極集中と変わらないという逆説が、この界隈に存在しています。



コロナ禍という膨張と、その後


2020年から2022年にかけてのコロナ禍は、VTuber・歌い手文化の爆発的な拡大期と重なりました。巣ごもり需要と配信視聴の急増が生んだ特需は、多くの参入者と多くのリスナーを一気に呼び込みました。しかしこれは文化としての成熟によって生まれた成長ではなく、外部環境の異常によって生まれた膨張でした。


2022年以降、社会活動の正常化とともに視聴時間は収縮に転じましたが、市場に参入した活動者の数は増えたままです。競争は激化し、パイは縮んだ。コロナ禍の熱量に動かされてこの世界に入った若い層の多くは、収益との接続が見えないまま、あるいは不透明なビジネス構造の前で立ち止まったまま、次の一歩を踏み出せずにいます。


冒頭で触れたスタジオの変化は、この文脈に置くと別の輪郭を帯びます。専門家が業務として使う録音から、夢想を抱えた活動者が初めてマイクの前に立つ録音へ——後者の比率が相対的に下がっているとすれば、それは文化の「入口のエネルギー」が変質しつつあることを示しています。文化を前進させる力の相当部分は、いつの時代も、まだ何者でもない人間の無謀な意志から生まれます。



声の文化が問われていること


この文化の「次の担い手」は、どこから来るのでしょうか。


現在の主要な担い手は、この文化とともに育った世代です。ニコニコのインキュベーター機能は今も働いており、歌コレがスターを生む見本市として機能し続けているとすれば、文化の連鎖はかろうじて続くかもしれません。しかしそのためには、ある種の「意志的な参入」が新たに生まれ続けることが必要です。


10代のZ世代が歌ってみたに無関心なのではありません。彼らは音楽を深く愛しています。ただ、その愛し方が異なる。丁寧に録音して投稿し、コメントでリスナーと対話し、歌い手として認知されていくという時間軸の長い文化的行為は、15秒で完結するコンテンツの体験とは根本的に異なる時間の使い方を要求します。どちらが良い悪いという話ではなく、両者の間には相互に乗り越えにくい時間感覚の差があります。


「歌ってみた」という文化が示し続けてきたのは、声ひとつで世界に届けられるという可能性の感覚でした。その感覚が、いま、プラットフォームの変容と世代の交代と、ビジネス構造の不透明さと、東京集中という地理的障壁の前で、静かに問い直されています。そこに、人間の声を精巧に模倣する音声合成AIの進化という問いが重なりつつあることも、書き添えておかなければなりません。声の固有性とは何か、生身の人間が歌うことの意味とは何か——この問いは、技術によっても制度によっても、まだ決着がついていない。答えはまだ、どこにも書かれていないのです。

2026年6月2日火曜日

小規模レコーディングスタジオの今後の展望と可能性——日米比較から見えてくる、生き残りの条件

レコーディングスタジオが変わっています。大手レコード会社が所有していたスタジオが次々と閉鎖され、一方で個人の宅録環境はかつてないほど充実しています。では、小規模レコーディングスタジオに未来はあるのか。アメリカのプロジェクトスタジオの現状と日本の実態を比較しながら、その展望と可能性を考えます。

世界のレコーディングスタジオ市場は、今どうなっているのか

グローバルなレコーディングスタジオ産業は、2025年時点で62億ドル規模に達しており、過去5年間で年率5〜7%の成長を続けています。音楽だけでなく、ポッドキャスト・映像・ストリーミングコンテンツへの需要が、産業全体の裾野を広げています。

一方で、DAWを含む音楽制作機器市場は2025年に約70億ドル、2030年には101億ドルに達すると予測されており、スタジオ産業そのものの成長率を大きく上回っています。

この数字が示しているのは、「制作できる環境」は個人に広がっているが、「音響的に正しい空間」は増えていないという現実です。録音の敷居は下がっても、録音に必要な空間の物理的な条件は、何も変わっていません。


アメリカのプロジェクトスタジオは、どう変わっているのか


アメリカの音楽制作スタジオ産業の2026年の売上高は17億ドルと推計されており、成長率は年率0.7%と緩やかです。しかし数字の裏側では、構造そのものが変わりつつあります。

注目すべき変化は3つです。

リモートコラボレーションの定着。2026年時点で、音楽制作のコラボレーションの70%がリモートの要素を含んでいます。Splice、BandLab、Avid Cloud Collaborationなどのプラットフォームが成熟し、地理的な制約は大幅に縮小しました。

AIツールの実用化。プロデューサーの60%以上がAIをミキシング支援・音声クリーンアップ・ステム分離などに活用しています。ただしAIへの完全委任は稀であり、人間の創造的判断が最終制作物を主導する構図は変わっていません。

コワーキング型スタジオの台頭。プロ品質の機材を時間単位で利用できる「フレックス・スタジオ」が生まれ、インディーアーティスト・ポッドキャスト制作者・映像クリエイターといった多様な層を取り込んでいます。2023年の非メジャー系録音音楽の収益は世界で143億ドル(市場全体の46.7%)に達しており、この担い手たちが小規模スタジオの新しい顧客層になっています。


日本の小規模スタジオが抱える「東京」という幻想


日本の音楽市場は、世界と逆行しています。

IFPIの「GLOBAL MUSIC REPORT 2025」によると、世界の音楽市場が4.8%増を記録した2024年、日本市場は2.6%の減少でした。世界ではストリーミングが収入全体の69%を占めているのに対し、日本ではフィジカル(CD等)が62.5%、ストリーミングは34.4%にとどまっています。

一方で、国内ストリーミング市場は着実に成長しています。日本レコード協会の統計によると、2024年の音楽配信売上は1,233億円(前年比106%)で、統計開始以来最高額を3年連続更新。ストリーミングは配信全体の91.8%を占めるに至っています。

日本のスタジオについてよく言われる「東京一極集中」という言葉は、実態を正確に表していません。正確には、「東京一極集中というビジネスモデルが機能しなくなった後も、スタジオが数として東京に存在し続けている」状態です。

実際、2000年代初頭にはすでに、ADAТなどのデジタルテープレコーダーを活用した地方でのマルチトラック録音と、東京でのミックスを組み合わせるワークフローがビジネスとして成立していました。問題は物理的な距離ではなく、レコード会社という単一の発注元への依存構造にあったのです。その依存構造が崩れた今、大手レコード会社のスタジオでさえ閉鎖が相次いでいます。


Dolby Atmosは、小規模スタジオの救世主になるのか


「Atmos対応が次の必須条件」という声があります。しかし、この問いは慎重に扱う必要があります。

ビルボード2024年トップ100アーティストの93%がAtmos対応楽曲をリリースしており、Apple MusicのサブスクライバーのS80%以上が2022年にSpatial Audioを「聴いた」とされています。しかし「聴いた」の大半は、iPhoneのデフォルト設定のままワイヤレスイヤホンで再生されたケースです。専用のスピーカー環境での体験とは、質的にまったく別の話です。

Radioheadのプロデューサー、ナイジェル・ゴッドリッチは率直にこう言っています。「Dolby Atmosのたわごと(all this Dolby Atmos rubbish)——音楽においてAtmosでうまく”調理”できたためしがない。マスタリングができない、全体にコンプレッションをかけることができない。これはすべて一種のはったりだと思う」。

アメリカのプロジェクトスタジオの主要クライアントであるヒップホップ・R&Bとの相性も根本的に問題があります。ヒップホップの美学は「フロントに叩きつける音圧と低音」にあり、音を立体空間に分散させるAtmosの設計思想とは相容れません。

Dolby社の2025年度の収益成長の主軸は、映画・映像・自動車です。音楽スタジオ向けAtmosは、同社にとってもマーケティング上の旗印という性格が強い。音楽制作を主軸とする日本の小規模スタジオが、Atmos対応を核心的な収益源として設備投資する根拠は、現時点では薄いと判断するべきです。


宅録時代だからこそ、音響空間に価値がある


ここで、見落とされがちな重要な視点があります。

「機材が個人に下りた時代に、スタジオはもはや特権的な場所ではない」——この言い方は半分だけ正しく、半分は誤っています。

失われたのは「レコード会社の発注窓口としての特権」です。しかし「音響的に正しい空間」の特権は、失われていません。むしろ、宅録が普及した今こそ、その価値は際立っています。

宅録環境には、構造的な限界があります。空調ノイズが録音に紛れ込む。マイクが壁の反射を拾う。クローゼットをブース代わりにすれば、今度は温度管理が問題になる。プロデューサーと並んでボーカルをモニタリングしようとすれば、部屋の狭さと音の回り込みが制約になる。これらは、ソフトウェアのアップデートでは解決できません。

「5,000ドルのマイクを音響処理されていない部屋で使えば、200ドルのマイクを適切に処理された空間で使うより劣った結果になる」——音楽制作の現場では、これは常識です。機材の前に、空間の設計が問われるのです。

さらに言えば、エンジニアとアーティストが同じ空間にいることの意味は依然として大きい。モニタースピーカーを通じてリアルタイムで音を共有しながらその場で判断を下す共同作業は、リモートワークフローやAIでは代替しきれない部分を持っています。

スタジオの「特権」の根拠は変わったのです。かつては「そこにしか機材がない」という希少性でした。今は「そこにしかない空間の質」と「そこでしか成立する共同作業のプロセス」という、より本質的な根拠に移行しています。


日本の小規模スタジオに開かれた、4つの可能性


では、具体的にどこへ向かうべきか。

① 音響空間の質を守ることが、すべての前提

機能の多角化も、リモート対応も、教育事業も、「音響的に正しい空間がある」という前提の上にしか成立しません。空調ノイズが制御され、適切な吸音が確保され、アーティストとエンジニアが同じ空間で音を共有できる——この物理的な条件を整えることが、小規模スタジオの存在根拠の核心です。

② 機能を「録音する場所」から「音を作る場所」へ再定義する

ポッドキャスト・映像コンテンツ・ゲームオーディオ・企業のブランデッドコンテンツなど、音楽以外の音声制作需要は確実に拡大しています。「音響的に正しい空間」を持つスタジオは、この需要に対して明確な答えを提示できます。

③ リモートワークフローへの対応で、地方の不利を強みに変える

東京のプロデューサーが遠隔でセッションを指揮できる環境を整えることで、「地方にある」という条件が選択肢になります。2000年代初頭にADATとISDN回線で実現されていたことの現代版は、技術的にはすでに十分に可能です。「静かな環境」「集中できる空間」「土地固有の音響」は、地方スタジオの強みとして語り直せます。

④ 映像・ゲームオーディオ分野との連携を視野に入れる

経済産業省は2025年6月、「エンタメ・クリエイティブ産業戦略及びアクションプラン5ヵ年計画」を策定し、「2033年までに日本発コンテンツの海外市場規模を20兆円に拡大する」という目標を掲げています。アニメ・ゲーム・映像分野のオーディオ制作需要の拡大は、音響的に正しい空間を持つ小規模スタジオにとって現実的な活路になり得ます。


まとめ——スタジオの価値は、空間と人の中にある


宅録の普及が逆説的に証明したのは、録音が「どこでもできる」ようになればなるほど、「本当にそれに適した空間」の価値が際立つという事実です。機材は個人に下りましたが、空間の物理的な性質は、下りていません。

生き残る小規模スタジオとは、その土地・その人・そのネットワークの中に固有の機能を見つけたスタジオです。そしてその根底には、必ず「音響的に正しい空間」という物理的な事実があります。

問われているのは設備の規模ではなく、空間への思想——そして、誰のために音を作るのかという問いへの答えです。

2026年5月7日木曜日

技術は誰のものか――スマートフォンが加速させた粗製濫造の時代に、AIが越えられない身体知の本質を問う

スマートフォンの普及により、音楽・写真・動画・テキストといったデジタルコンテンツの制作が、かつてないほど身近なものになりました。この変化を「民主化」と呼ぶ声は多く、確かに表現の敷居が下がったことは事実です。しかし同時に、技術の蓄積なしに外形だけを整えたコンテンツが大量に流通するという現実も生まれています。

本稿では、スマートフォンとAIが加速させた粗製濫造の問題を正面から取り上げ、AIが原理的に代替できない「身体知」の本質について論じます。技術とは何か、AIは人間の補完なのか模倣なのか、そしてAI開発に人道的観点からの議論が必要な理由について、実在する資料に基づいて考えます。

スマートフォン普及がもたらしたコンテンツの爆発的増加

総務省「令和6年版 情報通信白書」によれば、2023年時点での日本のスマートフォン世帯保有率は90.6%に達しています。インターネット利用においてもスマートフォン経由が72.9%と、パソコン経由の47.4%を大きく上回っています。

この数字が意味するのは、カメラ・録音機材・編集ソフト・配信プラットフォームのすべてが、ほぼすべての人の手の届くところに置かれているという現実です。PwC Strategy&の国際調査報告書は、インターネットが創作ツールや配信ツールの利用を民主化したことにより、クリエイティブ産業のあらゆる領域でプロとアマチュアのコンテンツの境界線が曖昧になりつつあると分析しています。

これ自体は、表現の多様化という観点から見れば望ましい変化を含んでいます。問題は、その裏側で何が起きているかです。

粗製濫造という現実——質のばらつきという構造問題

UGC(ユーザー生成コンテンツ)の質について、マーケティング領域ではすでに構造的問題として認識されています。「UGCはユーザーが生成するコンテンツであるため、ユーザーの技量によってコンテンツの質にばらつきが生まれてしまいます」(ecbeing、2024年)。

技術の蓄積なしに「それらしい形」だけを模倣したコンテンツが量産され、それが淘汰される仕組みを持たないまま情報空間を埋め尽くしていく。この傾向は写真・動画・音楽・テキストのすべての領域で進行しています。

Googleはこの問題に対して、2025年1月改定の検索品質評価ガイドラインで明確な姿勢を打ち出しました。AIなどの自動生成ツールによって作成されたコンテンツを「見かけはオリジナルでも、実質的に価値が伴っていない」ものとして最低評価の対象とすることを明確にしたのです。外形的に整っていることと、本質的な価値を持つことは、まったく別の話です。

表現の門戸が広がることそのものを否定するつもりはありません。しかし、技術の習得という過程を経ることなしに「それっぽさ」だけが流通し消費されていく状況は、表現の質の基準そのものを徐々に低下させていきます。

身体が知っている——暗黙知とは何か

ここで、技術というものの本質について考えてみたいと思います。

ハンガリーの科学哲学者マイケル・ポランニー(1891-1976)は、著書『暗黙知の次元』(1966年)において、人間の知を「形式知」と「暗黙知」に分類しました。形式知とは言語・数字・図表によって説明できる知識であり、暗黙知とは個人的な経験により得られる言語化しにくい知識——ノウハウやコツ、身体知に相当するものです。

ポランニーの言葉を借りれば「我々は語ることができるより多くのことを知ることができる」。自転車の乗り方を例にすると、一度習得すれば年月を経ても忘れませんが、その乗り方を人に言葉で正確に説明することは困難です。身体が知っているが、言語化できない——これが暗黙知の本質です。

暗黙知はまた「通常無意識的で、詳細には表出することも他人に伝達することも不可能な知」とされており(東京経済大学 大崎勝、人文自然科学論集第127号)、その習得は経験と実践を通じた身体的な積み重ねによってのみ可能です。

音楽録音の現場で言えば、マイクロフォンをどこに置くか、空間の響きをどう読むか、演奏者の呼吸をどのタイミングで捉えるか——これらの判断は、長年の反復と失敗の積み重ねの末に身体に宿るものです。技術書を読み込んでも、動画チュートリアルを見ても、身体知は宿りません。

セネットが問い直した職人的技術の価値

社会学者リチャード・セネットは、著書『クラフツマン——作ることは考えることである』(筑摩書房、2016年)の中で、近代が忘却したクラフツマンシップの本質を問い直しました。

セネットによれば、クラフツマンの技術や知識はそもそも言語化できないものであり、それは言語そのものの限界です。研究者がインタビューを通じてクラフツマンの技術に迫ろうとしても本質に触れられないのは、クラフツマンが思慮に欠けているからではなく、技術の核心が言語という媒体で伝達できない次元に存在しているからです。

また、バイオリン名器ストラディヴァリウスが名器である理由についても、セネットは重要な指摘をしています。アントニオ・ストラディヴァリの息子たちが工房を衰退させた要因のひとつは、「天才にしか認識できないことや伝承ができない暗黙的な知識にこそ権威が宿った」からでした。模倣不可能な身体知こそが価値の本質だったということです。

さらにセネットは、クラフツマンシップを「我慢強く基本に忠実な人間的衝動、仕事をそれ自体のために立派にやり遂げたいという願望」と定義しています。技術とは効率や速度で測れるものではなく、反復的な実践を通じてのみ育まれるものです。

AIは「補完」か「模倣」か——定義を問う

AI技術について論じるとき、「補完」という言葉がしばしば使われます。人間の能力を代替するのではなく補完するものとしてAIを位置づける考え方です。

しかし独立行政法人経済産業研究所(RIETI)の分析によれば、「人工知能は、文字通り『人間の脳を機械で作る』ことを究極の目標としています」。設計思想の根底に「模倣」があることは、業界の共通認識でもあります。また内閣府「世界経済の潮流 2024年Ⅰ」は、「代替」と「補完」には実際には語感の差ほどの大きな違いはないと率直に認めています。

ここで暗黙知の概念が重要な意味を持ちます。ポランニーが論証したように、人間の技術のうち本質的な部分は言語化も、したがってデータ化も、原理的にできません。データ化できないものはAIが学習できません。AIが届くのは人間が言語化・データ化した範囲での模倣であり、職人の「手の感覚」や録音エンジニアの「耳の判断」が宿る暗黙知の領域には、原理的に届かないのです。

適切に活用されるとき、AIは確かに人間の能力を拡張する「補完」として機能します。しかしそれは、活用する側に確固とした技術的蓄積と審美的判断力がある場合に限られます。AIの出力を選別・編集し「これではない」と判断する能力は、AIが代替できない人間の身体知に根ざしているからです。

核開発の轍——AI開発に人道的観点が必要な理由

AI開発をめぐる現状は、ある歴史的先例を思い起こさせます。核開発です。

「原爆の父」と呼ばれた物理学者J・ロバート・オッペンハイマーは、マンハッタン計画を主導した後に深く苦悩し、「物理学者は罪を知った」と語りました。科学史家の伊藤憲二は「科学者がどう振る舞うべきか教えてくれる倫理体系は無かったし、ある意味、今でも無い」と指摘しており(WEBみすず、筑摩書房)、この状況は現在のAI開発者たちが直面している構造と重なります。

リクルートワークス研究所の論考(2024年)は「現在に置き換えれば、生成AIをめぐる議論がこれに相当するでしょう。最新の技術の危険性をいち早く察知できるのは専門家です」と指摘しています。

この問題意識は、国際社会の公式文書にも明確に記されています。ユネスコは2021年11月23日、193加盟国全会一致で「人工知能の倫理に関する勧告」を採択しました。ユネスコ事務局長補のガブリエラ・ラモスは「世界は6世紀前に印刷機が導入されて以来のペースで変化しようとしている。倫理的なガードレールがなければ、現実世界の偏見や差別を再現し、基本的人権と自由を脅かす危険性がある」と述べています。

AI開発は今や、人間的・人道的な観点から語られなければならない段階に来ています。

技術は誰のものか——近道のない問いに向き合う

この傾向は完全には止められないものかもしれません。スマートフォンの普及が止まらないように、AI技術の進化も止まらないでしょう。しかしだからこそ、流れに棹を差しておかなければならない場面があります。

技術は誰のものか。身体で習得した者のものです。その習得に近道はありません。うまくいかない経験の積み重ね、思い通りにならない失敗の連続、そのひとつひとつが身体に刻まれていくことで、言葉にならない判断力が育まれます。AIはその過程を代わりに歩んでくれません。

蓄積のある人間がAIという道具をどう使うか——そこにしか、本質的な価値は生まれません。外形的に整ったものが大量に流通する時代だからこそ、身体知を積み上げることの意味は、むしろ増しているとも言えます。