近年、日本の音声メディアを取り巻く環境は、静かですが大きな転換点を迎えています。
民間AMラジオ局の運用休止やFM転換、radikoなどIP配信への移行が進み、「AMラジオはこの先どうなるのか」という問いを耳にする機会も増えてきました。
これは単なる技術的な問題や、放送局の経営判断だけの話ではありません。
日本における「音声文化そのもののあり方」が、次の段階へ移ろうとしている兆しだと捉えることができます。
アメリカでは、ラジオはいまも生活の音です
一般には「アメリカではポッドキャストが主流になった」と語られることが多いですが、実際には少し違った構図があります。
アメリカでは現在でも、AM/FMラジオは音声メディアの中心的存在です。
特に車社会という背景もあり、通勤や移動の時間にはラジオが自然に流れている環境が維持されています。
ラジオは「意識して選ぶメディア」というより、そこにあって当たり前の生活音です。
その一方で、ポッドキャストはラジオを置き換えた存在ではなく、役割を分け合う存在として広がりました。
ラジオが「いま起きていること」を伝える音だとすれば、ポッドキャストは「自分で選び、じっくり聴くための音」です。
この二層構造が、アメリカの音声文化を支えています。
日本のラジオ文化は、もともと性格が違います
日本の音声文化は、アメリカとは成り立ちが異なります。
通勤の主役は電車であり、移動中はスマートフォンによる視覚情報が中心です。
ラジオは常に「好きな人が選んで聴くメディア」という位置づけでした。
深夜ラジオを楽しむ人、特定の番組やパーソナリティの声を大切にする人。
日本のラジオ文化は、熱量の高いリスナーに支えられてきた文化でもあります。
そのため、AMラジオという仕組みが縮小していくことは、文化の断絶というよりも、役割の引き渡しとして受け止める方が自然です。
FM放送やradiko、IP配信といった代替手段はすでに定着しており、音声そのものが消えるわけではありません。
日本におけるポッドキャストの位置づけ
では、日本でポッドキャストはどのような存在になっていくのでしょうか。
アメリカのように、社会全体を覆う主流メディアになるかといえば、同じ道をたどる可能性は高くありません。
しかし、それは否定的な意味ではありません。
日本のポッドキャストは、もっと静かに、個人的な距離感で広がっていくと考えられます。
画面を見ることに疲れた時間帯。
移動中や作業中、あるいは夜のひとりの時間。
そうした場面で、声だけがそっと寄り添う。
情報は過剰に主張せず、語りは落ち着いていて、文脈を大切にする。
日本のポッドキャストは、「音声版のテレビ」ではなく、「生活の余白に置かれる音」として定着していく可能性があります。
声は、どこで残されていくのか
AMラジオの縮小は、「声を届ける場所」が変わることを意味します。
これまで声は、放送という大きな仕組みの中で扱われてきました。
しかし今後は、より小さな単位で、より柔軟な形で残されていきます。
ポッドキャスト、ナレーション、対話型コンテンツ、記録音声。
音楽以外の音声表現も含め、「声をどう残すか」という問いが、現実的なテーマになっています。
スタジオで録音され、整えられ、編集され、必要な人のもとへ届く。
そうしたプロセスが、放送局の外側でも当たり前になりつつあります。
音声文化は終わらず、再編されていく
AMラジオが姿を消しつつある今、日本の音声文化は終わりに向かっているわけではありません。
むしろ、音声は次の段階へ移行しています。
大きな声よりも、届く声。
即時性よりも、積み重ね。
消費される音よりも、残される音。
日本独自のテンポと感覚で、音声文化は静かに再編されています。
こうした変化を、日々の制作や録音の現場から見つめ続けている場所のひとつが、神宮前レコーディングスタジオです。
公式サイトでは、音楽制作だけでなく、声を記録し残す取り組みについても情報を発信しています。
https://www.elekitel.net/
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