スマートフォンの普及により、音楽・写真・動画・テキストといったデジタルコンテンツの制作が、かつてないほど身近なものになりました。この変化を「民主化」と呼ぶ声は多く、確かに表現の敷居が下がったことは事実です。しかし同時に、技術の蓄積なしに外形だけを整えたコンテンツが大量に流通するという現実も生まれています。
本稿では、スマートフォンとAIが加速させた粗製濫造の問題を正面から取り上げ、AIが原理的に代替できない「身体知」の本質について論じます。技術とは何か、AIは人間の補完なのか模倣なのか、そしてAI開発に人道的観点からの議論が必要な理由について、実在する資料に基づいて考えます。
スマートフォン普及がもたらしたコンテンツの爆発的増加
総務省「令和6年版 情報通信白書」によれば、2023年時点での日本のスマートフォン世帯保有率は90.6%に達しています。インターネット利用においてもスマートフォン経由が72.9%と、パソコン経由の47.4%を大きく上回っています。
この数字が意味するのは、カメラ・録音機材・編集ソフト・配信プラットフォームのすべてが、ほぼすべての人の手の届くところに置かれているという現実です。PwC Strategy&の国際調査報告書は、インターネットが創作ツールや配信ツールの利用を民主化したことにより、クリエイティブ産業のあらゆる領域でプロとアマチュアのコンテンツの境界線が曖昧になりつつあると分析しています。
これ自体は、表現の多様化という観点から見れば望ましい変化を含んでいます。問題は、その裏側で何が起きているかです。
粗製濫造という現実——質のばらつきという構造問題
UGC(ユーザー生成コンテンツ)の質について、マーケティング領域ではすでに構造的問題として認識されています。「UGCはユーザーが生成するコンテンツであるため、ユーザーの技量によってコンテンツの質にばらつきが生まれてしまいます」(ecbeing、2024年)。
技術の蓄積なしに「それらしい形」だけを模倣したコンテンツが量産され、それが淘汰される仕組みを持たないまま情報空間を埋め尽くしていく。この傾向は写真・動画・音楽・テキストのすべての領域で進行しています。
Googleはこの問題に対して、2025年1月改定の検索品質評価ガイドラインで明確な姿勢を打ち出しました。AIなどの自動生成ツールによって作成されたコンテンツを「見かけはオリジナルでも、実質的に価値が伴っていない」ものとして最低評価の対象とすることを明確にしたのです。外形的に整っていることと、本質的な価値を持つことは、まったく別の話です。
表現の門戸が広がることそのものを否定するつもりはありません。しかし、技術の習得という過程を経ることなしに「それっぽさ」だけが流通し消費されていく状況は、表現の質の基準そのものを徐々に低下させていきます。
身体が知っている——暗黙知とは何か
ここで、技術というものの本質について考えてみたいと思います。
ハンガリーの科学哲学者マイケル・ポランニー(1891-1976)は、著書『暗黙知の次元』(1966年)において、人間の知を「形式知」と「暗黙知」に分類しました。形式知とは言語・数字・図表によって説明できる知識であり、暗黙知とは個人的な経験により得られる言語化しにくい知識——ノウハウやコツ、身体知に相当するものです。
ポランニーの言葉を借りれば「我々は語ることができるより多くのことを知ることができる」。自転車の乗り方を例にすると、一度習得すれば年月を経ても忘れませんが、その乗り方を人に言葉で正確に説明することは困難です。身体が知っているが、言語化できない——これが暗黙知の本質です。
暗黙知はまた「通常無意識的で、詳細には表出することも他人に伝達することも不可能な知」とされており(東京経済大学 大崎勝、人文自然科学論集第127号)、その習得は経験と実践を通じた身体的な積み重ねによってのみ可能です。
音楽録音の現場で言えば、マイクロフォンをどこに置くか、空間の響きをどう読むか、演奏者の呼吸をどのタイミングで捉えるか——これらの判断は、長年の反復と失敗の積み重ねの末に身体に宿るものです。技術書を読み込んでも、動画チュートリアルを見ても、身体知は宿りません。
セネットが問い直した職人的技術の価値
社会学者リチャード・セネットは、著書『クラフツマン——作ることは考えることである』(筑摩書房、2016年)の中で、近代が忘却したクラフツマンシップの本質を問い直しました。
セネットによれば、クラフツマンの技術や知識はそもそも言語化できないものであり、それは言語そのものの限界です。研究者がインタビューを通じてクラフツマンの技術に迫ろうとしても本質に触れられないのは、クラフツマンが思慮に欠けているからではなく、技術の核心が言語という媒体で伝達できない次元に存在しているからです。
また、バイオリン名器ストラディヴァリウスが名器である理由についても、セネットは重要な指摘をしています。アントニオ・ストラディヴァリの息子たちが工房を衰退させた要因のひとつは、「天才にしか認識できないことや伝承ができない暗黙的な知識にこそ権威が宿った」からでした。模倣不可能な身体知こそが価値の本質だったということです。
さらにセネットは、クラフツマンシップを「我慢強く基本に忠実な人間的衝動、仕事をそれ自体のために立派にやり遂げたいという願望」と定義しています。技術とは効率や速度で測れるものではなく、反復的な実践を通じてのみ育まれるものです。
AIは「補完」か「模倣」か——定義を問う
AI技術について論じるとき、「補完」という言葉がしばしば使われます。人間の能力を代替するのではなく補完するものとしてAIを位置づける考え方です。
しかし独立行政法人経済産業研究所(RIETI)の分析によれば、「人工知能は、文字通り『人間の脳を機械で作る』ことを究極の目標としています」。設計思想の根底に「模倣」があることは、業界の共通認識でもあります。また内閣府「世界経済の潮流 2024年Ⅰ」は、「代替」と「補完」には実際には語感の差ほどの大きな違いはないと率直に認めています。
ここで暗黙知の概念が重要な意味を持ちます。ポランニーが論証したように、人間の技術のうち本質的な部分は言語化も、したがってデータ化も、原理的にできません。データ化できないものはAIが学習できません。AIが届くのは人間が言語化・データ化した範囲での模倣であり、職人の「手の感覚」や録音エンジニアの「耳の判断」が宿る暗黙知の領域には、原理的に届かないのです。
適切に活用されるとき、AIは確かに人間の能力を拡張する「補完」として機能します。しかしそれは、活用する側に確固とした技術的蓄積と審美的判断力がある場合に限られます。AIの出力を選別・編集し「これではない」と判断する能力は、AIが代替できない人間の身体知に根ざしているからです。
核開発の轍——AI開発に人道的観点が必要な理由
AI開発をめぐる現状は、ある歴史的先例を思い起こさせます。核開発です。
「原爆の父」と呼ばれた物理学者J・ロバート・オッペンハイマーは、マンハッタン計画を主導した後に深く苦悩し、「物理学者は罪を知った」と語りました。科学史家の伊藤憲二は「科学者がどう振る舞うべきか教えてくれる倫理体系は無かったし、ある意味、今でも無い」と指摘しており(WEBみすず、筑摩書房)、この状況は現在のAI開発者たちが直面している構造と重なります。
リクルートワークス研究所の論考(2024年)は「現在に置き換えれば、生成AIをめぐる議論がこれに相当するでしょう。最新の技術の危険性をいち早く察知できるのは専門家です」と指摘しています。
この問題意識は、国際社会の公式文書にも明確に記されています。ユネスコは2021年11月23日、193加盟国全会一致で「人工知能の倫理に関する勧告」を採択しました。ユネスコ事務局長補のガブリエラ・ラモスは「世界は6世紀前に印刷機が導入されて以来のペースで変化しようとしている。倫理的なガードレールがなければ、現実世界の偏見や差別を再現し、基本的人権と自由を脅かす危険性がある」と述べています。
AI開発は今や、人間的・人道的な観点から語られなければならない段階に来ています。
技術は誰のものか——近道のない問いに向き合う
この傾向は完全には止められないものかもしれません。スマートフォンの普及が止まらないように、AI技術の進化も止まらないでしょう。しかしだからこそ、流れに棹を差しておかなければならない場面があります。
技術は誰のものか。身体で習得した者のものです。その習得に近道はありません。うまくいかない経験の積み重ね、思い通りにならない失敗の連続、そのひとつひとつが身体に刻まれていくことで、言葉にならない判断力が育まれます。AIはその過程を代わりに歩んでくれません。
蓄積のある人間がAIという道具をどう使うか——そこにしか、本質的な価値は生まれません。外形的に整ったものが大量に流通する時代だからこそ、身体知を積み上げることの意味は、むしろ増しているとも言えます。
0 件のコメント:
コメントを投稿