嘘をつかない、約束を守る、感じがいい——多くの人がそういった像を描くと思います。では、言いにくいことを相手に直接伝える人は、誠実でしょうか。意見が違えば正面からぶつかる人は、誠実でしょうか。
その問いへの答えが、世代によって、SNSの内側と外側とで、これほど違ってきたのかと思い知らされる時代に、私たちはいます。
信頼の地盤が崩れている
まず現実を確認しておく必要があります。
2025年の国内調査では、政治家を「信頼する」と答えた日本人は全体の約2割。「政治家は腐敗しており、強い指導者が必要だ」という問いには半数以上が同意しています。5〜10年後の家計が「悪くなる」と答えた人が過半数を超え、日本経済への見通しも6割以上が悲観的です。
これは政治の問題だけではありません。政府・メディア・組織・言葉、あらゆる制度への不信が社会の底に静かに積み重なっています。誠実さが機能するためには、「相手の言葉を信じうる」という最低限の地盤が必要です。その地盤が今、広範囲にわたって掘り崩されています。
「見ること」が「信じること」でなくなった時代
信頼の侵食に追い打ちをかけているのが、ディープフェイクと生成AIの問題です。
2025年の調査では国内外の企業の6割以上が、過去12か月以内にディープフェイク攻撃を経験したと報告しています。映像が本物であることの証明も、声が本人のものであることの確認も、もはや容易ではありません。「見ること」が「信じること」の根拠でなくなりつつある、という認識論的な転換が現実として起きています。
かつての選挙でフェイク情報が交錯し結果を左右したとされる事例は、この問題が民主主義の実際の機能に直結していることを示しています。「誠実に伝える」という行為が、発信者の内面の問題だけでなく、「その誠実さをどう証明するか」という受信者との間の問題になっています。
SNSが「誠実さ」を書き換えた
しかし問題の核心は、技術だけにあるわけではありません。より日常的な場所で、誠実さの概念そのものが書き換えられています。
現在の若い世代の多くは、SNSの評価が自分の気分に直結する環境の中で育ちました。ある調査ではZ世代の約72%が「SNSでの評価が自分の気分に影響する」と回答しています。「否定・押しつけ・比較」を強く忌避し、「想定外」そのものをリスクとして避ける。これは個人の性格の問題ではなく、プラットフォームが長年かけて人々の内面に刻み込んできた行動の文法です。
「いいね」を最大化する発信が奨励され、摩擦や反論は可視化されてペナルティを受ける構造の中でコミュニケーションを続けていれば、「誰かを傷つけないこと」と「誠実であること」がやがて同一視されるようになります。
傷つけないために本音を言わない。否定しないために議論を深めない。炎上しないために少数意見に同調する。これがSNSの設計が生み出した「誠実さの文法」です。
摩擦を引き受けることが、誠実さだった
私は1965年生まれです。その時代に育まれた「誠実さ」の感覚には、今とは異なる前提がありました。
相手と正面から向き合い、威圧感なく議論をする。相手が言わんとしているところを思い計りながら、意見が違えば率直に伝える。少数意見であれ民主的に尊重し、多数意見であっても疑う。言いにくいことは配慮しながらも、直接本人に伝える。遅刻のような些細な行為の中にも、相手の時間を一個の人格として尊重する姿勢を見る。
これらはすべて、「他者を尊厳ある存在として扱う」という思想の実践です。そしてその誠実さには、関係の中にある緊張を厭わないという覚悟が伴っていました。本音を伝えれば相手が傷つくかもしれない、議論が深まれば自分の考えが崩れるかもしれない——そのリスクを引き受けることが、誠実さの核心でした。
カントは「誠実さは条件付きであってはならない」と説いています。安全な場合にだけ、利益になる場合にだけ誠実であるのは、誠実さとは呼べない、と。その原則は今も変わらないはずです。
「虚偽ではない」ことと「誠実である」ことの距離
誠実さをめぐる哲学的な議論の中に、こんな問いがあります。「虚偽ではない言明を用いながらも、人を誤解させること」は誠実と言えるのか——と。
SNS上での「戦略的な自己演出」や「言わないことの選択」は、嘘ではありません。しかし誠実かと問われると、答えに詰まります。言葉が体験から離れるとき、それはどれほど正確であっても、誠実さの手触りを失います。
AIがあらゆる情報を流暢に語れる時代に、「何を知っているか」より「何を体験したか」が問われるようになっているのは、その感覚が広く共有された結果でもあります。体験に根ざさない言葉への不信は、すでに社会の広い層に静かに広がっています。
疲弊の先に、問い直しが始まっている
ただし、希望がないわけではありません。
2025年はSNS登場以来初めて、Z世代のSNS利用時間が「伸びなくなった」転換点だったと指摘されています。演出を排した「素の自分」を共有するプラットフォームへの支持、「映えではなくリアル」へのシフトは、承認欲求疲れの裏返しとして読めます。疲弊は、問い直しの始まりです。
「若者が変わった」では済まない問題
誠実さの条件は確かに変わっています。しかしその変化の正体を「若者が変わった」という言葉で処理してしまうのは、早計です。
誠実さを表現する「場」そのものが変わったことの帰結として、今の状況があります。SNSというプラットフォームの報酬構造は、自然発生したものではありません。誰かが、何かを、どこかの時点で選んだ結果です。
2026年6月現在、誠実さの問いは個人の内面の問題である以上に、私たちがどのような「場」の中でことばを交わし続けるのかという、構造への問いとして立ち現れています。その問いに向き合うこと——それが今日、誠実さの第一歩なのかもしれません。

0 件のコメント:
コメントを投稿