2025年8月22日金曜日

 

矢野誠一と渋谷陽一──文化と経済をつなぐ役割と「役割の再定義」

2025年、演芸評論家の矢野誠一さんと、音楽評論家でありロッキンオンを率いた渋谷陽一さんが、相次いでこの世を去りました。両者の存在は、それぞれ異なる領域でありながら、日本の文化を形作る上で大きな役割を果たしました。ここではお二人を「影響力を強く持った公の立場に近い経済人」として捉え直し、その功績と功罪、そして現代との関係を考えてみたいと思います。

矢野誠一さんは、演芸評論を通じて落語や演芸を文化的資産として広く社会に伝えました。評論活動によって芸の魅力を言語化し、学術的な記録として残したことは大きな功績です。しかし一方で、伝統を守るがゆえに「古典を神聖化しすぎる窮屈さ」も生んだと言えるでしょう。

渋谷陽一さんは、ロッキンオンを通じて日本のロック文化を照射しました。読者投稿を積極的に採り入れた誌面づくりや、独自の評論スタイルは、音楽を「娯楽」から「生き方の一部」へと昇華させました。その一方で、評価軸が狭く、一極集中的な文化観が日本のロックの多様性を抑えたのではないかという議論もあります。

お二人に共通しているのは、「文化を言葉にし、世に広め、経済活動とも結びつける媒介者」であった点です。評論や編集は、単なる記録ではなく、文化の方向性を決定づける力を持っていました。

しかし、2025年の今、その存在には違和感も覚えます。現代は誰もがSNSで発信し、評論できる時代です。ひとりの評論家や編集者が「文化の代表」として語ること自体が、時代に合わなくなっています。権威的な発信から、分散的で多声的な文化共有へと流れが移っているのです。

もし現代に矢野さんや渋谷さんのような影響力を持つ人物が登場するとすれば、それは「一人の強い声」ではなく、「多数の声をつなぎ、整理する存在」であるでしょう。批評家や編集者というより、コミュニティの編集者。支配ではなく対話、評価の独占ではなく多様性の媒介。そうした立場でなければ、現代社会に受け入れられないのです。

矢野誠一さんと渋谷陽一さんの功績は、文化を言葉で残し、音楽や演芸を生活の中に浸透させたことにあります。その一方で、現代の私たちに課された課題は、「誰が文化を語るのか」ではなく、「私たち一人ひとりがどのように語り、受け止め、残していくのか」という問いです。

神宮前レコーディングスタジオもまた、その文脈の中で存在しています。音楽を記録し、残し、届ける。その営みの中には、過去の批評文化と同じように「媒介者」としての責任があります。威圧でも沈黙でもなく、表現者が自身の存在理由を語れる環境をつくること。それが、スタジオが担う「役割の再定義」であり、次の世代へ文化をつなぐ条件だと考えています。

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