2025年10月8日水曜日

「メジャー/インディーズ」の機能不全と、〈声による社会的な儀礼〉としての録音文化 ――2025年におけるカラオケボックスとレコーディングスタジオの文化的等価性をめぐって――

音楽の世界で長く語られてきた「メジャー」と「インディーズ」という区分は、2025年のいま、ほとんど意味を持たなくなっています。

かつては資本や配給の規模で分かれていた両者も、制作から発表までがデジタル空間で完結する現代では、どこに所属しているかよりも「どのような関係の中で音が鳴るか」が価値の基準になっているからです。

音楽は、企業やレーベルの枠組みではなく、人と人との文脈の中で生まれ、響き、共有されるものへと変わりました。

この構造の変化は、産業の形を変えただけでなく、「声を通して互いを確かめ合う」という人間の根本的な行為のあり方をも変えています。

思い返せば、カラオケボックスはもともともっと素朴で親密な承認の場でした。

友人や家族と歌い合い、拍手を送り合う時間の中で、人は「自分がここにいる」という感覚を確かめていたのです。

しかし社会の構造が変化し、その小さな承認の循環はオンラインへと移行しました。

スマートフォンで声を録り、SNSや動画サイトに投稿する。

その反応の積み重ねが、かつての拍手や笑顔の代わりになっています。

録音スタジオという空間もまた、そうした変化の延長線上にあります。

スタジオはもはや「作品を作るための場所」ではなく、「声を記録し、社会の中で存在を確認する場所」へと変わりました。

カラオケボックスが即時的な共感を生む場だとすれば、スタジオはその共感を記録として社会に残す場です。

どちらも、人が声を介して自己を確かめ、誰かとつながるための装置であるという点で、等価な存在なのです。

近年、録音空間のあり方も変化しています。

大規模なスタジオが減り、代わりに集中を促す小規模・高密度な環境が増えています。

音を完璧に再現することよりも、一人の表現者が自分の内面と向き合う時間に重きが置かれるようになりました。

カラオケボックスもまた、そうした「内的集中の装置」としての性格を持っています。

また、音を形に残すこと自体が、今あらためて見直されています。

デジタルでの再生が当たり前になった時代に、アナログレコードの売上が伸び続けているのは、「触れられる音」「手元に残せる記録」を求める気持ちが生きているからでしょう。

音は発せられた瞬間に消えるものです。

録音とは、その不可逆な時間に抗い、失われゆく一瞬を社会の記憶として留める文化的な営みです。

レコーディングスタジオで録られる声も、カラオケボックスで歌われる一曲の痕跡も、どちらもその人の生きた時間を刻むものとして、同じ文化的構造の上に存在しています。

録音は単なる音の整音技術ではありません。

それは、人と社会の記憶を結び合わせ、時代の中に声を残していくための静かな実践です。

そして、その営みを支える録音技術者の役割も変化しています。

音響を管理する専門職ではなく、「表現と社会をつなぐ翻訳者」として、一人ひとりの声の奥にある想いを記録し、未来へ渡していく。

そこに、録音という仕事の新しい責務が生まれています。

神宮前レコーディングスタジオは、そうした変化を受け止めながら、これからも「声を録る」という文化の本質を丁寧に探り続けていきます。

声が生まれる瞬間を、社会の中でどう残していけるか。

その問いを、音の現場から発信していきたいと思います。

公式サイト:https://www.elekitel.net/

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