舞台芸術の現場に立つたびに感じるのは、「人が人の前で演じる」ことの重さです。
照明が落ち、息をひそめる観客。
袖で緊張を押し殺す俳優。
あの空気がひとつに重なる瞬間に、時間が動き出すのを確かに感じます。
それは単なる娯楽ではなく、生きる社会の中で「存在を証明する行為」そのものです。
しかし2025年の舞台芸術を取り巻く環境は、大きく揺れています。
文化庁や日本芸術文化振興会の支援によって活動が維持されている一方で、助成金への依存が企画内容に影響を与える現場も少なくありません。
「採択されること」が目的化し、芸術の自由度が狭まるという課題も見えています。
経済的な仕組みの再設計が求められているのです。
一方で、観客の意識も変化しています。
ぴあ総研の調査では、観劇動機の上位に「SNSで話題」「推し俳優の出演」が並びました。
共有や拡散が価値の中心にある時代。
作品よりも「誰と一緒に体験するか」が重視されるようになりました。
けれど、舞台の本質はやはり「同じ時間を生きること」にあります。
合理的な社会の中で、非効率な体験を守ることこそが舞台芸術の意味なのかもしれません。
さらに近年、「表現の自由」と「倫理的配慮」のあいだで揺れる作品が増えています。
ジェンダーや差別表現をめぐる議論がSNSで炎上し、上演が中止になる例も報じられました。
誰かを傷つけないための配慮が、結果として創作の萎縮を生むという難しさ。
芸術が社会と対話するためには、自由と責任を両立させる新しいルールづくりが必要です。
技術革新も舞台の姿を変えています。
AIによる脚本補助や、ホログラムでの遠隔出演が現実になりました。
しかし、人の身体が放つ温度や息づかいは、いかなる技術でも完全には再現できません。
演劇人の三浦基さんが語ったように、「舞台とは身体というリスクを共有する芸術」です。
テクノロジーを恐れるのではなく、不完全な人間を照らす光として活かすこと。
それが、これからの舞台表現の方向ではないでしょうか。
そしてもう一つのテーマが「記録」です。
国立国会図書館や文化庁が舞台映像のアーカイブ化を進めています。
文化を守るためには大切な取り組みですが、同時に「消えることの意味」も見失ってはいけません。
一度きりの舞台、一度しか鳴らない音。
その儚さこそが、記録社会では得られない“生の芸術”の証です。
舞台芸術は、経済・倫理・技術・記録という四つの波に揺れながら、それでもなお社会の鏡であり続けています。
助成に頼るだけでなく、観客と支え合い、対話を重ね、技術と共に歩むこと。
その先にこそ、「生きる社会」と「表現する社会」がつながる未来があります。
神宮前レコーディングスタジオでも、音を録るという行為の根底には同じ願いがあります。
消えてしまう時間の中に“生きた声”を残すこと。
それが私たちの仕事です。
公式サイト(https://www.elekitel.net/)でも、創作や収録にまつわる考え方を発信しています。
もし次の舞台の幕が上がるとき、その静けさの奥に“生の音”を感じられたなら、
それはあなたの中の何かが、確かに鳴った証かもしれません。

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