演劇という表現は、人が身体と言葉を使って物語を立ち上げるところから始まります。舞台に立つかどうかに関わらず、歌う人や語る人、映像をつくる人、音楽をつくる人など、表現に関わる多くの人が、この「演劇的な力」をどこかで借りています。
対話する力、即興で反応する力、沈黙の重さを感じ取る力、感情の起伏を構造として理解する力。これらはすべて、演劇が本来育ててきたものです。ところが、この大切な表現は日本の社会において長いあいだ周縁に置かれ、十分に評価されてきませんでした。
その象徴の一つが教育現場における扱われ方です。演劇は半世紀以上にわたって正規科目として定着しておらず、学芸会や文化祭の一部として触れられる機会が中心です。1970年代にも、1980年代にも、2010年代にも「教育に取り入れるべきだ」という議論が繰り返されましたが、立場はほとんど変わっていません。演劇が持つ本質的な価値が教育制度に届かないまま、同じ課題が連続しています。
経済基盤についても状況は似ています。戦後から現在に至るまで、劇団の多くは「劇団員の持ち出し」と「助成金への依存」に直面し続けています。1960〜80年代に議論された課題が、そのまま2020年代の課題として積み残されている現実は、演劇を支える構造がいかに脆弱なままであるかを示しています。
地域格差も大きな問題です。1970年代には既存の大劇場では創造の場が不足していたため、小劇場やテント劇場が各地に生まれました。しかし2020年代の今も、文化資源は東京に集中し、地方では上演や学習の機会が限られています。長年親しまれてきた劇場の閉館が相次ぎ、創造拠点の減少が続いています。
さらに、演劇は「その瞬間がすべて」という特徴を持つため、稽古過程や演出意図、俳優の身体技法が十分に残されず、ほかの分野に活用しにくい状態が続いてきました。半世紀にわたり、演劇は「再利用されない文化」として扱われてきたと言っても過言ではありません。
こうした状況を踏まえたうえで、2026年以降の演劇にはいくつかの方向性が見えてきます。
演劇を教育の基盤として再整備すること。対話や即興性といった、AIには置き換えにくい人間の力を育てる中心に演劇を据えること。これは、社会全体のコミュニケーション能力を底上げする可能性を持っています。
また、AIが台本や舞台構造を提示し、人間が身体性で応答するような「共創の演劇」も今後大きく発展するでしょう。稽古場で生まれる知識や技法をアーカイブし、音楽・映像・教育・研究へ横断的に活かす仕組みも必須になります。
地域に根ざした演劇が、街の文化や人のつながりを再生する装置として機能する未来も見えてきます。観客を「鑑賞者」ではなく「共創者」として迎え入れ、作品づくりに関わる循環をつくることも、演劇が持続するために欠かせません。
演劇は、単なる舞台芸術のひとつではありません。身体と言葉が交差する場を通して、社会全体の人間理解を支える根源的な技術です。長い時間をかけて解かれなかった問いに、いよいよ向き合う時期が来ていると感じます。
神宮前レコーディングスタジオでも、声や音の仕事を通して、演劇が持つ根源的な力を日々感じています。もし興味をお持ちいただければ、こちらから詳細をご覧いただけます。
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演劇の未来を考えることは、これからの表現の未来を考えることでもあります。半世紀続いてきた課題を超えて、新しい演劇の形が生まれていくことを願っています。
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