音楽を聴く場所が変わった時代に、私たちは何を失ったのか
2000年代までの日本の音楽風景を思い出すと、そこには「お茶の間」という空間が確かにありました。テレビやラジオから音楽が流れ、スピーカーを通じて部屋全体を包み込む。その場にいる家族や友人は、意図せず同じ音楽を共有し、時に好みの一致や対立を通じて、自分の感性を確かめていたのです。偶然の出会いがあり、そこから音楽の発見や新しい価値観が生まれていました。
ラジオの深夜放送から思いがけないヒット曲が生まれることもありました。深夜特有のリスナーの熱気や、一体感の中で共有された音楽は、個人の趣味を超えて「時代の音」として広がっていったのです。そこには、偶然が織りなす出会いの力と、不特定多数の耳を通して音楽が評価される校閲性が存在していました。
同じことはインディーズ音楽文化にも言えます。ライブハウスという場では、音楽好きな人々が集まり、特定のバンドを初めて聴くことがありました。観客の歓声や批評がその場で飛び交い、ミュージシャンは他者の眼差しの中で成長していったのです。数多くの耳を経て、音楽の質が磨かれ、価値が確認されていくプロセスこそが、文化を豊かにしてきた背景でした。
しかし2025年の今、状況は大きく変化しています。音楽を聴くのはほとんどがスマートフォンを介し、イヤホンを通じた「個人的な空間」での体験となりました。さらにアルゴリズムによるレコメンドが、私たちの嗜好を狭めていきます。結果として、最初から「好きな音楽」しか耳に入らず、異なるジャンルや他者からの批評性が入り込む余地が極端に減ってしまいました。
これは便利で快適なように見えて、実は大きな変化を孕んでいます。かつてのような偶然性や批評性、そして「校閲の場」としての共同体が失われることで、音楽はますます個人の閉じた世界に収まりつつあるのです。そこでは、新しい価値観に触れる驚きや、耳の肥えた他者からの評価を通じた音楽の成熟といった経験が希薄になってしまいます。
音楽は本来、人と人をつなぎ、他者と共に味わうことで広がりを持ってきた文化です。その出会いの偶然性をどう取り戻していくか。あるいは、新しいテクノロジーの中でどのように再構築していくか。それは2025年の音楽シーン全体に突きつけられている問いではないでしょうか。

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