2025年の文化環境を眺めると、「二極化」という言葉が自然と浮かびます。大型フェスやスタジアム公演などには巨額の資本が集中し、同時に短尺動画や即時消費型のコンテンツが日常を占めています。その一方で、地域の祭りや中規模の公演は、物価高騰や人件費の上昇により縮小や中止を余儀なくされる場面が増えてきました。
消費者の行動にも同じ傾向があります。普段は短尺動画で軽く楽しみ、特別な機会には長尺の映画や舞台、ライブに没入する。こうした二極化の流れの中で、「ほどよい規模」「ちょうどよい時間感覚」の文化活動は成立しにくくなっています。
しかし、本来の芸術は二極化を前提にしてきたわけではありません。人間は本能的に歌い、踊り、絵を描いてきました。日本の民謡や盆踊りもその一例であり、農耕や生活の中から自然に生まれ、共同体の一体感を確かめる役割を果たしてきました。そこにプロとアマの境界も、大きな資本の大小も関係はありませんでした。
やがて突出した表現者が共同体の中で認められ、貨幣経済の流れの中で芸能や産業として発展していったのです。つまり芸術は「誰もが参加できる普遍性」と「特別に認められる特異性」が連続する中で育ってきました。
現在進行している二極化は、芸術そのものの本質ではなく、資本経済や行動経済、そしてテクノロジーがもたらした外的要因にすぎません。円安や物価高によるコスト増大は、大規模事業と小規模事業の格差を広げ、中規模の活動を最も脆弱にしています。また、生成AIの発展は制作の初期コストを下げる一方で、短尺コンテンツの供給を加速させています。結果として、中規模の文化体験はますます選ばれにくくなっているのです。
重要なのは、これらの現象を「芸術の本質」と誤解しないことです。芸術は本来、人間の表現衝動と共同体的な承認の中で育まれてきました。外的要因による二極化をそのまま受け入れてしまうと、芸術は「巨額資本を要する産業」か「消費される軽量コンテンツ」の二択に矮小化されてしまいます。
では、どうすれば中規模の健全な営みを支えることができるのでしょうか。具体的な方法としては、世代に合わせた柔軟なチケット設計、公式リセールによる空席削減、大学や企業との共同制作モデル、クラウドファンディングによる資金調達と観客参加の同時実現などがあります。さらに、民謡や郷土芸能のように「共同体全員が担い手となる仕組み」を現代に応用することも可能です。
芸術は、分断の結果ではなく、分断を超えて人をつなぐ存在です。歌や踊りや絵がそうであったように、芸術には人と人を橋渡しする力があります。だからこそ今、二極化を冷静に外的要因と見極め、中規模の文化活動を意識的に支えることが重要なのです。
神宮前レコーディングスタジオでは、この「橋を架ける芸術の力」を大切にしています。表現に込められた音や言葉が人をつなぎ、文化を未来に届ける。その営みをこれからも模索し続けていきたいと思います。
公式サイトはこちらからご覧ください。
https://www.elekitel.net/
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