2025年9月25日木曜日

録音業界の人材不足と「膝を折る」身体性について

 


録音業界では、ここ数年「技術者不足」という言葉をよく耳にするようになりました。制度改革による労働環境の改善やAI技術の進歩が進む一方で、スタジオワークに必要な若手人材の流入は年々減少しています。

背景にはいくつかの要因があります。かつては音響専門学校に通い、レコーディングスタジオに憧れを抱く若者が数多くいました。しかし、音楽市場がCDからストリーミングへと移行し、宅録や自動ミックスが広がったことで、現場で学ぶ機会は少なくなりました。その結果、「録音技術者」という職業が持つ魅力は社会的に見えにくくなっています。

録音の現場には、AIでは代替できない数多くの有機的な作業があります。適切なマイクの選択、プリアンプの調整、楽器や声に応じたマイキング、演者の耳に合わせたヘッドフォンのレベル調整など。これらは数字やアルゴリズムだけでは成り立たず、音を扱う人間が身体を使って判断するからこそ実現できる技術です。

私は「膝を折る」という表現に、録音という営みの本質があると思います。演者と同じ目線に立ち、同じ空気を吸い込みながら音を聴く。その姿勢から生まれる安心感や音の厚みは、AIの処理だけでは決して再現できません。

録音業界が持続可能であるためには、こうした身体性の価値を再び社会に伝えていく必要があります。そして、スタジオという場が「人が音に寄り添う場所」であることを明確に示し続けることが大切です。

神宮前レコーディングスタジオでは、最新の技術を取り入れつつも、最後は人の手で、耳で、身体で音を仕上げることを大切にしています。録音に興味を持つ方、実際にレコーディングを考えている方は、ぜひ一度公式サイトをご覧ください。

👉 神宮前レコーディングスタジオ公式サイト
https://www.elekitel.net/

AI時代の表現芸術と人間の責任──制度比較と言語化経済社会の視座から

私たちはいま、表現芸術において歴史的な転換点に立っています。生成AIが過去の作品を学習し、音楽や声を再構築できるようになったことは、単なる技術革新ではありません。誰が創作者なのか、どこから権利が発生するのか、そして社会が芸術をどう評価するのか。根本的な問い直しを迫られています。

アメリカでは、著名なミュージシャンが公開書簡を通じてAIの無断利用に反対の声を上げました。Stevie WonderやBillie Eilishといった大物アーティストが名を連ね、音楽業界全体に強い影響を与えました。さらにテネシー州では「ELVIS法」が成立し、声や肖像を無断で生成することを禁止しました。労働組合であるSAG-AFTRAも大手レーベルとの契約交渉で「AIによる声の複製には本人の同意と補償を必須とする」条項を導入しました。こうした動きは、抗議の声が制度や契約に結びついた事例として注目されます。

一方、日本ではJASRACや日本レコード協会などが「AIに関する音楽団体協議会」を立ち上げ、声明や要望を発表しています。日本音楽作家団体協議会や音楽家ユニオンも文化庁に意見を提出し、識別や不正利用防止の必要性を訴えています。しかし現状は協議や声明にとどまり、法的拘束力や契約実務への直接的な反映は限定的です。背景には、日本の著作権法が柔軟性を重視し、文化庁が調整役として慎重な合意形成を優先する文化的事情があります。拙速な規制を避ける利点はありますが、芸術家の権利保護が遅れる要因にもなっています。

両国を比較すると、制度の実効性、アーティストの発言力、契約実務、説明責任の四つの点で大きな差が見えてきます。アメリカは罰則付きの制度や契約で芸術家を守る方向に進んでいますが、日本は合意形成に重きを置き、制度的には慎重な歩みを続けています。

私はAIを「過去の情報を整理再構築する道具」にすぎないと考えています。AIは膨大な断片を組み合わせる力を持ちますが、それを芸術に昇華させるのは人間の意志と選択です。現代アートにおけるレディ・メイドや流用のように、既存のものが芸術となるのは「人間が意味を与える」瞬間にほかなりません。AIの生成物も同じく、人間の介在と文脈化が不可欠です。

ここで重要になるのが「言語化経済社会」という視点です。現代社会では、価値は「どのように言葉にされるか」によって評価され、経済的な価値に結びつきます。AIの生成物が社会で意味を持つためには、言語による解釈と物語化が必要です。言語化が行われなければ、生成物は断片にすぎません。逆に言語化を通じて初めて、芸術としての存在証明を獲得します。

AIは創作の終着点ではなく、創作の出発点です。人間が言葉と意志をもってAIを使いこなし、社会に意味を与えることで、新しい芸術が生まれます。責任を放棄すれば芸術は単なるデータの組み合わせに堕しますが、責任を果たせば芸術は未来へと広がっていきます。

神宮前レコーディングスタジオでは、こうしたAI時代における音楽制作の新しい形を模索しつつ、現場からの実践を積み重ねています。公式サイトでも関連情報を発信していますので、ぜひご覧ください。

2025年9月5日金曜日

芸術と録音の本質 ― 有機的表現とAI時代の課題

芸術と録音の本質 ― 有機的表現とAI時代の課題

2025年9月6日

著者:藤原 亮英(神宮前レコーディングスタジオ)

芸術表現は、長い歴史のなかで常に「手」と「身体」によって紡がれてきました。筆をとり、絵を描き、文字を記し、舞台に立ち、声をあげる――その一つひとつには、表現者の時間や記憶、手触りや息遣いといった、取り替えのきかない“生”が宿っています。録音もまた同様であり、私たちはこの「有機的表現」を技術と感性をもって正確に受け止め、記録・保存することで後世へ手渡していきます。

有機的表現:音楽は物理であり、身体で解釈されます

音楽はデータや記号ではなく、空気の振動として成立します。低音は胸郭や腹部を震わせ、高音は神経を微細に刺激し、リズムは心拍と歩幅を整えます。最終的にスピーカーやイヤフォンから発せられる振動が、人間の身体により有機的に解釈されて初めて、音楽体験が立ち上がるのです。

録音の本質:生の瞬間を空気とともに捕捉します

録音は単なる技術ではありません。スタジオという場において、演者とエンジニアが同じ空気を共有し、言葉にならない気配をも含めて捉えます。赤いランプが点り、クリック前の呼吸が深まり、最初の一音が空間を変える――その瞬間に宿る“生”を、誠実に記録・保存するのです。

AI時代の課題:模倣・補助はできても「業の肯定」は担えません

生成AIは過去データを統計的に再構成して音や声をつくります。実用上の価値は大きい一方で、「必然性」や「切実さ」、矛盾を抱えた人間の“業”は含まれません。実務の現場では、AIが生成した音声に対し、呼吸や間、抑揚、発話速度、音素の揺らぎを人間の耳と手で丁寧に調整し、“魂を入れる”工程を経ることで初めて表現へ近づいていきます。

録音を支える三つの共有:「生・業・責任」

  1. 生の共有:同じ空気・身体・時間を分かち合い、場の生々しさをそのまま受け止めること。
  2. 業の共有:表現者の必然や矛盾を共に引き受け、音へと昇華させること。
  3. 責任の共有:記録は未来へ手渡される前提で作られ、社会に届く音として誠実に仕上げること。

これらはAIのみでは担えません。人の耳と手、判断と責任が不可欠です。

レコーディングエンジニアの役割:最後の砦としての存在意義

エンジニアは作業者ではなく、共同制作者です。波形の整形に留まらず、「どの瞬間を未来に残すか」という価値判断を、技術と感性の両輪で行います。AI時代においても、この責任は揺らがず、むしろ重要性を増していると確信しています。

結論:有機的表現を未来へ――スタジオは存在証明の場です

芸術は「手」と「身体」によって立ち上がり、音楽は有機的な物理現象として身体に受け止められます。録音は、その生を空気と共に捕捉し、業と責任を共有して未来へ渡す営みです。AIは強力な補助線となり得ますが、「業の肯定」や「責任の共有」を代替することはできません。だからこそ、スタジオとエンジニアは、これからも音の存在証明を担っていくのです。


【神宮前レコーディングスタジオのご案内】

名古屋で「有機的表現」を誠実に残す場所をお探しでしたら、当スタジオの詳細をご覧ください。料金や設備、予約方法などを掲載しています。

公式サイト:https://www.elekitel.net/

© 神宮前レコーディングスタジオ(運営:エレキテル・プロジェクト)

所在地:愛知県名古屋市熱田区花表町8-12

基本料金:1時間4,000円(税込・1時間単位)

予約確定:公式LINEで本名フルネーム送信(https://lin.ee/g3m9K6L

芸術か消費か ― 音楽をめぐる世代間断絶とレコーディングの未来



2025年、音楽産業の姿は大きく変わっています。かつてのようにCDや出版物を販売し、そこから収益を得るモデルは数字の上でほとんど崩壊しました。日本レコード協会の統計では2024年のCDアルバム生産数が前年比12%減、出版科学研究所の報告でも紙の出版物の売上が5%以上減少しています。かつて当たり前だった「所有する音楽」は、経済的にも文化的にも持続できなくなっています。

その一方で、ストリーミングサービスを中心とした配信ビジネスは急成長を続けています。スマートフォンを手にすれば世界中の音楽がすぐに流れてくる時代です。音楽は「手に取るもの」から「流れてくるもの」へと変わり、その存在の意味まで変質しました。

しかし、この変化は単なるフォーマットの違いにとどまりません。人間の音楽体験そのものを塗り替えています。アナログ時代には、人間的なひらめきと試行錯誤の積み重ねが新しい音楽を生み出し、ショパンやベートーヴェンのように既存の言語を超える存在が現れました。AI時代の音楽は、過去のデータを学習し、統計的に再構成されることで成立しています。効率的で便利ですが、飛躍を生むことはなく、再生産の枠を越えることはできません。

さらにスマートフォン文化が加わり、音楽は「ながら聴き」やSNSでの短い共有のために消費されるものになっています。Spotifyの調査では日本のZ世代の七割以上が「音楽はながらで聴くもの」と答え、TikTokの調査でも18〜24歳の約65%が「音楽を知るきっかけはショート動画」と答えています。アルバム全体をじっくり聴くという体験は減少し、短いフレーズをSNSで共感し合うことが中心となりました。

この世代間の違いは文化的な断絶を生んでいます。上の世代にとって音楽は「人生を変える芸術」であり、レコードやCDを所有し、アルバム全体に没入する時間が大切でした。若い世代にとっては、音楽は芸術ではなく「コミュニケーションの道具」として機能しています。これは単なる好みの違いではなく、文化の方向性そのものに深い分岐をもたらしています。

それでも音楽は消えません。なぜなら、音楽はデータや記号ではなく、空気を震わせ、身体に響く有機的な物理現象だからです。低音は胸を震わせ、高音は神経を刺激し、リズムは心拍と共鳴します。これらは人間の身体が有機的に解釈することで初めて音楽になります。AIがどれほど精巧でも、この有機的な物理性を欠いた音楽は本質に届かないのです。

だからこそレコーディングスタジオとエンジニアの存在は揺るぎません。スタジオは人と人とが出会い、空気を共有し、その瞬間を音に刻む場所です。エンジニアは唯一無二の響きを守り、磨き上げ、社会に届けます。AIがどれほど市場を覆っても、スタジオで録音された声や演奏、その場の空気は代替できません。

芸術か、消費か。この問いに答えを出すのは市場ではなく、私たち人間の選択です。どちらに振れても、音楽が有機的な物理現象として存在し続ける限り、レコーディングスタジオとエンジニアの意義は決して消えることはありません。

神宮前レコーディングスタジオでは、その有機的な音楽体験を未来に残すための取り組みを続けています。詳しくは公式ホームページをご覧ください。

神宮前レコーディングスタジオ公式サイト:https://www.elekitel.net/

2025年9月2日火曜日

見えない存在の危機──文化の屋台骨をどう守るか見えない存在の危機──文化の屋台骨をどう守るか

 

見えない存在の危機──文化の屋台骨をどう守るか

はじめに

舞台の魔法は、目に見えない手によって創られています。客席から見えるのは俳優や照明の輝きですが、その背後には黒子や舞台監督、音響や照明のスタッフがいます。彼らの働きがあって初めて幕が上がり、演劇や音楽が成立します。

しかし、2025年の今、この「見えない存在」が世界的に減りつつある現実があります。舞台の裏方を志す若者は減少し、同様にレコーディングスタジオでもアシスタントエンジニアの不足が深刻になっています。

なぜこのような状況が起きているのでしょうか。

社会的背景と文化的潮流

SNSや動画配信が普及したことで、自分が直接表に立ち発信できる時代になりました。評価や承認を得るのは「見える仕事」のほうが速く、効率的です。その結果、文化を支える「見えない仕事」は敬遠されがちになっています。

さらに、過酷な労働環境や低賃金といった問題も背景にあります。これらは制度や仕組みを改善することで対応できる部分ですが、同時に「表舞台に立ちたい」という文化的な流れそのものには抗えない面もあります。

それでも残る人間の役割

では、このまま裏方がいなくなってしまうのでしょうか。答えは「いいえ」です。

舞台に立つ役者の一瞬の間合い、歌い手の声の揺らぎ、観客の反応に応じて変わる照明や音響。これらはすべて、人間の感覚に依存しています。録音の現場でも同じです。マイク前での緊張、呼吸のリズム、失敗や偶然の表情。そうした「人間らしさ」を含んだ瞬間こそが有機的な音楽を形作っていきます。

AIや自動化が進んでも、この部分は決して代替できません。裏方の存在は「見えない労働者」ではなく「文化の守り手」であり、その役割を再定義する必要があります。

神宮前レコーディングスタジオの視点

私たち神宮前レコーディングスタジオでも、この問題を日々実感しています。録音で残したいのは、整った音ではなく、その人自身が抱える揺らぎや迷いです。エンジニアやアシスタントの存在は、その瞬間を未来に渡すための媒介であり、文化の証人です。

結論

裏方が減少している現状は確かに危機ですが、同時に大きな再定義の機会でもあります。文化を支える人々を社会全体で「守り手」として認識し直すことが求められています。

問いの答えはまだ見つかっていません。けれど、一つだけ確かなことがあります。文化の屋台骨は、いつの時代も、やはり人間が守っていくのです。