2025年10月31日金曜日

感動の消失とAI表現の臨界点 ――人の心を動かす“人の手”の意味を考える

AIが作った音楽や映像を耳にすることが当たり前になりました。

どれも整っていて、音も美しく、構成にも無駄がありません。

けれど、それらを聴いて「心が震えた」と感じることは、驚くほど少ないように思います。

それは好みの問題ではなく、「人の心の動き」が表現の中に存在していないからです。

かつてのテレビコマーシャルやアニメーションには、制作者の呼吸や迷い、挑戦の跡がありました。

一瞬の間(ま)や、意図の見え隠れする演出の中に、“人の気配”がありました。

その痕跡が、見る人の想像力を刺激し、共感や反発を生み、心を動かしていたのだと思います。

感動とは、他者の心の運動を感じ取ったときに生まれるものです。

そして、その運動が見えなくなったとき、人の心は動かなくなります。

最近の心理学実験では、「これはAIが作曲した」と知らされるだけで、同じ音楽でも人が感じる感情の深さが減少することが報告されています。

音の完成度ではなく、“誰が作ったのか”という背景の存在が、感情の受け取り方を左右する。

この事実は、人間の創作に宿る「軌跡」の重要性を裏づけています。

スウェーデンの音楽心理学者ジュスリンは、音楽が人の感情を動かす仕組みをいくつかに分類しました。

その中でも「感染(emotional contagion)」と呼ばれる現象があります。

演奏者の呼吸、テンポの揺らぎ、ほんの少しのためらい。

そうした身体的な動きが、聴き手の内部に伝わり、共鳴を起こす。

これは、AIがどれほど精密に再現しても、置き換えられない“人の生きた動き”です。

一方で、私たちが日々触れているSNSや広告は、「滞在時間を最大化する」ように設計されています。

人の注意をどれだけ長く引きつけるかという仕組みの中では、立ち止まる余白が削ぎ落とされます。

しかし、心が動くためには、その“余白”こそが欠かせません。

感動は、効率とは逆の場所に宿るものだからです。

広告の世界でも、感情に訴える表現が長期的な成果を生み出すことが証明されています。

一見非効率に見える「情緒的な表現」こそが、ブランドの信頼や価値を支える。

つまり、感動は決して“無駄”ではなく、社会の持続性を生む合理そのものなのです。

そして今、AIによる創作支援が文化や著作権のあり方を揺さぶっています。

国際機関UNESCOのガイドラインでは、人間の創作意図を明示し、文化的多様性を守る重要性が示されています。

これは技術の問題ではなく、「人の経験の運動をどう継承するか」という問いそのものです。

私は、表現文化を守るということは、作品を保存することではなく、

「誰かの心が動いた軌跡を、他の誰かが追体験できるようにすること」だと思っています。

AIが生み出した整った表現に、人が意味を吹き込む。

その相互作用の中にこそ、これからの創造の希望があります。

心を動かす表現とは、技術や形式ではなく、「人の心が動いた痕跡」を感じ取れる構造のことです。

AIが作った作品がどれほど美しくても、「感動した」とは言われないのは、その痕跡が存在しないからです。

これからの時代に大切なのは、人の手が介在した“未完成の美”を残すこと。

その揺らぎこそが、他者と感情を共有する唯一の通路であり、

それを失えば、私たちは「心の動き」そのものを失ってしまうのかもしれません。

https://www.elekitel.net/

2025年10月29日水曜日

ヒット曲の定義が消えた時代 ――バズと継続聴取の断絶をめぐって

2025年の今、「ヒット曲」という言葉の意味がわからなくなった――

そんな声を、レコーディング現場で頻繁に聞くようになりました。

かつては明確な基準がありました。

オリコンチャートで何位、CDが何万枚。

“ヒット”は数字で語られ、努力の成果が誰の目にも見えるものでした。

しかし今、再生数やSNSでの拡散が中心となり、その定義はあいまいになっています。

バズることと聴かれること。

注目を集めることと、愛され続けること。

それはもう、同じ意味ではなくなりました。

ヒットの指標は、CDの売上から、

ストリーミング、動画再生、カラオケ、SNS投稿数といった複数の要素へと広がりました。

Billboard JAPANのチャートでは、これらの要素を総合的に集計しています。

ですが、こうしてチャートが細分化されるほど、

「何をもってヒットと呼ぶのか」がわかりにくくなっているのも事実です。

短尺動画で一瞬バズる。

それでも翌週には、別の曲がその席を奪っていく。

そのスピードの中で、演奏家や歌手は「自分の音楽の居場所」を探し続けています。

再生数が何百万を超えても、収益にはつながらない。

人の心を動かしても、職業としての安定にはならない。

そんな矛盾が、現場の中で積み重なっています。

TikTokやYouTube Shortsで人気が出ても、

そこからストリーミングへ聴取が移る曲はごく一部だといわれます。

視覚的な注目は得られても、耳が動かない。

「音楽が映像の背景になる時代」と呼ばれるように、

今の“バズ”は、音楽そのものを聴く行為から遠ざかってしまっているのかもしれません。

AI音楽の登場も、ヒットの定義をさらに複雑にしています。

AIが歌い、AIが演奏する。

人間の歌手や演奏家の存在意義はどこにあるのか。

スタジオで実際に人の声を録るたび、

その「呼吸」と「間」に宿る温度が、どれほど貴重なものかを実感します。

機械が音を作っても、

“心”や“時間”は作れません。

これからのヒットは、

一瞬の注目ではなく「どれだけ長く聴かれ続けるか」。

そして「誰の記憶に残り、再び聴かれるか」。

短い波ではなく、長い呼吸。

音楽が人の生活に根づいていく時間こそが、本当のヒットだと思います。

数字ではなく、記録。

バズではなく、継続。

その考え方が、これからの音楽制作に必要な軸ではないでしょうか。

神宮前レコーディングスタジオでは、

そんな「人の声」や「演奏の時間」を記録として残すことを、これからも大切にしていきます。

神宮前レコーディングスタジオ公式サイト:

https://www.elekitel.net/

2025年10月27日月曜日

正しく鳴らす、という文化の話 ――地方映画祭の現場で見えた、努力と制度のあいだ――

2025年の秋、日本各地で映画祭の季節がやってきました。

都市部の大型フェスティバルだけでなく、地方のまちや学校、商店街の一角で開かれる映画祭も数多くあります。

それぞれの場所で、地域の方々やボランティアが力を合わせ、文化を育て続けています。

私は今年、北海道で開かれた夕張国際ファンタスティック思い出映画祭に、技術スタッフとして参加しました。

会場は、かつて小学校だった建物の体育館。

上映されたのは、若い監督たちの作品で、身近な仲間と手づくりで仕上げた映画ばかりでした。

その温かい現場の空気に包まれながらも、ひとつだけ強く感じたことがあります。

それは、「映画を正しく鳴らす」ということが、想像以上に難しくなっているということです。


会場では、イベント用のスピーカーを使い、2チャンネルの音源で上映が行われていました。

音響スタッフの方々は限られた時間と予算の中で最善を尽くしており、その努力には深い敬意を感じます。

ただ、そこには技術面とは別の「構造的な壁」があります。

都市部ではDolby Atmosや立体音響、AIによるノイズ除去などが当たり前になりましたが、地方の映画祭では仮設会場での上映が多く、反響や音響調整を思い通りに行うのが難しいのです。

技術の進歩と現場の条件。そのあいだにあるギャップが、年々大きくなっています。

こうした状況を誰かの責任にするのは簡単ですが、現実には「制度の側が追いついていない」ことが根本原因だと思います。

文化庁や日本映画制作適正化機構が制作・安全に関するガイドラインを整備している一方で、「上映」という工程そのものには、全国共通の品質基準が存在していません。


上映という行為は、単に機材を動かすことではありません。

それは作品を正しく再生し、監督やスタッフの意図を観客に伝える文化的な営みです。

地方の映画祭を支えているのは、現場のスタッフや音響屋さん、照明担当、そして地域のボランティアの方々です。

彼らの努力がなければ、映画は観客の前に立ち上がることさえできません。

だからこそ、その努力を支える「仕組み」が必要だと思います。

たとえば次のような仕組みです。

・上映仕様(DCP・音声チャンネル数・音量基準)の事前共有

・会場音響マニュアル(スピーカー配置・反響処理の手引き)

・上映チェックリスト(音圧測定・同期確認)

・仮設会場向けの安全・衛生ガイドライン

こうした標準的なフレームを共有することで、現場の柔軟な判断を尊重しながら、再現性と品質を両立することができます。

映画祭を“守る”仕組みは、現場の人たちを縛るものではなく、むしろ支えるための基盤になるはずです。


映画は、光と音の芸術です。

どんなに映像が美しくても、音が正しく再生されなければ、作品の魅力は伝わりません。

AIがどれほど進化しても、「どう聴かせたいか」を選ぶのは人間の仕事です。

地方映画祭の音がときに不完全でも、その奥には確かな情熱があります。

私たちは、その努力を支える制度と文化を育て直す段階に来ています。

映画を“正しく鳴らす”という意識が広がれば、地方映画祭はもっと豊かに、もっと誇らしい場所になっていくでしょう。

神宮前レコーディングスタジオ(https://www.elekitel.net/)は、これからも現場で鳴る音と、人の手の仕事を見つめ続けていきます。

2025年10月25日土曜日

AI時代の創作疲労と「基準の変化」──音楽制作者の動機を再設計するために

 




2025年の秋、音楽制作やレコーディングを続ける人たちの中で、少しずつ空気が変わってきています。

「AIより上手くできないから、自分はやる必要がない」
「どうせAIが作ってしまう」
「バズっても収入にならない」

そんな言葉を耳にする機会が増えました。
AIという新しい基準が生まれたことで、音楽を「作る」ことの意味が揺らいでいます。


AIツールの進化によって、音楽制作のハードルは一見下がりました。
しかしその一方で、心理的なハードルは確実に高くなっています。
AIが短時間で整ったサウンドを生み出すたびに、人間の側が「AIより上手くできているか」を意識してしまう。
この構造が、創作意欲やモチベーションを削いでしまっているのです。


実際、音楽業界ではAI生成の楽曲が急増しています。
2025年には、あるストリーミングサービスで新しく追加される曲のうち、約3割がAIによる生成作品だと発表されました。
1日あたり3万曲を超える量がアップロードされており、人間が作った音楽が見つけにくくなっているともいわれています。

AIが音を作る時代は、単なる技術革新ではなく「可視性と信頼の再設計」を迫る時代でもあります。
音楽を作っても聴かれない、聴かれても届かない。
そんな“発見困難”の構造が、多くの創作者を疲弊させています。


一方で、AIが整った音を量産できるようになった今だからこそ、人間が作る音の「揺らぎ」や「息づかい」の価値が再び注目されています。
呼吸の間や、わずかなノイズ。
そうした“均質ではない音”の中にこそ、作り手の時間や感情が宿ります。

録音現場では、AIが模倣できない領域をどう残すかが大切になっています。
音楽制作は、仕上げることではなく、「残す」ことへと軸を移しつつあります。


神宮前レコーディングスタジオでは、AI時代における創作の疲労や迷いに向き合う方々を多くお迎えしています。
私たちは「AIに勝つ音」を作るのではなく、「人の息づかいを残す音」を一緒に作ることを大切にしています。

作品を仕上げる過程で、メタデータや紹介文などを整える「可視性の設計」も同時に行い、作品が埋もれないようサポートしています。
音の完成度を高めるだけでなく、作品が“届く形”まで伴走することが、スタジオの新しい役割だと考えています。


AIが基準を変えた今、人が向き合うべき基準は「上手い・下手」ではありません。
「誰が、なぜ、その音を作ったのか」
そこに宿る意図や体温が、聴く人の心を動かします。

AIが整えた音が溢れる世界の中で、
人が奏でる一音には、いまも確かな価値が存在します。

録ることは、存在を残すこと。
そしてそれは、AIがいかに進化しても奪うことのできない、人間だけの営みです。


神宮前レコーディングスタジオでは、
整いすぎた世界の中で、あえて「人の揺れ」を残す録音を行っています。
AIの時代における音楽制作の意味を、一緒に探していきませんか。

👉 神宮前レコーディングスタジオ
https://www.elekitel.net/

2025年10月15日水曜日

歌ってみた文化と著作権のこれから ―― 安心して創作を続けるために知っておきたいこと ――

「歌ってみた」という文化が広がって、もう十数年が経ちました。

最初は自宅で録った小さな歌声が、今ではプロのような作品に仕上げられる時代になりました。

録音機材も編集ソフトも身近になり、誰もが自分の声を世界に発信できるようになりました。

けれど、その自由の裏で、「これって大丈夫なのかな?」という不安も増えています。

スタジオにも、著作権や利用ルールについての相談が本当に多く寄せられています。

まず知っておきたいのは、歌ってみたには二つの権利が関わっているということです。

ひとつは「著作権」。作詞や作曲をした人の権利です。

もうひとつは「著作隣接権」。演奏した人や、レコード会社など録音を管理する人の権利です。

自分で伴奏を弾いたり、アカペラで歌ったりする場合は、隣接権の多くを回避できます。

しかし、作詞作曲の著作権そのものは別で、たとえ自分で演奏しても、原曲を使う場合には許可や包括契約の範囲を確認する必要があります。

YouTubeやニコニコ動画は、JASRACやNexToneなどと包括契約を結んでいます。

これによって、個人が非商用で投稿する範囲では、ある程度の利用がカバーされています。

ただし、全てのケースが自動的にOKというわけではありません。

X(旧Twitter)やInstagramのように、包括契約がない、あるいは商用利用を制限しているサービスもあります。

つまり、「アップロードできた=合法」ということではないのです。

投稿の目的や利用するサービスの契約範囲を確認することが、安全な第一歩です。

もうひとつ注意が必要なのは「改変」と「替え歌」です。

歌詞やメロディを変えると、著作者の人格権(同一性保持権)に関わる場合があります。

意図的なパロディやネタ作品であっても、原曲の尊重は欠かせません。

誰かの作品を借りる以上、敬意をもって扱うことが、結果的に自分の創作を守ることになります。

また、AI歌唱やボイスチェンジャーを使う動画も増えています。

YouTubeでは2024年から「合成音声を使った場合は開示する」というルールが明文化されました。

これは制限ではなく、制作の透明性を高めるための仕組みです。

誰が、どのような方法で作ったのかを明示することで、リスナーも安心して作品に触れることができます。

いま必要なのは、「やってはいけないこと」を探すことではなく、

「どうすれば続けられるか」を考える視点だと思います。

そのためには、次のような小さな確認を習慣にしておくと安心です。

・使いたい曲をJASRAC「J-WID」やNexToneのデータベースで検索する

・利用するサービス(YouTubeやInstagramなど)の規約を読む

・既存音源ではなく、自分で伴奏を作る

・AIや合成音声を使う場合は、その旨を明記する

こうした手順を踏むことで、トラブルの多くは未然に防げます。

歌ってみたは、音楽をもっと身近にした文化です。

そして、それを支える技術や制度は今も進化しています。

これからの時代は、単に「歌う」だけでなく、「どう届けるか」「どう守るか」も表現の一部になるでしょう。

神宮前レコーディングスタジオでは、歌ってみた制作のご相談をはじめ、著作権や配信に関する実務的なサポートも行っています。

安心して作品を発表できるよう、現場からの知識をわかりやすくお伝えしています。

詳しくは公式サイトをご覧ください。

https://www.elekitel.net/

2025年10月14日火曜日

AI時代におけるビートメイカーの消滅と再定義 ビートメイカーは死んだか? AIが奪えなかった「音の思想」と次なる職能

ループ職人から意味付けの思想家へ


2025年の今、音楽制作のなかで最も早くAIに置き換えられた領域は「ビートメイキング」です。

メロディや歌詞よりも構造が明快で、リズムパターンやコード進行が確率的に再現しやすい。

そのため、AIにとってビートは「最も再現可能な音楽形式」となりました。

Suno、Udio、Mubertといった生成AIツールは、プロデューサーがDAWで構築してきた「拍と層の構造」を一瞬で模倣します。

その結果、かつて“ビートメイカー”と呼ばれた職能は、AIの学習データの延長線上に吸収されていきました。

しかしこれは、単にAIが人間の仕事を奪ったという話ではありません。

むしろ、「音を作る」という行為そのものの社会的な意味が変わり始めたということです。


ビート販売プラットフォーム(BeatStars、Airbitなど)では、2021年以降、個人制作者の平均売上が激減しています。

同じタグ(たとえば “Drake type beat”)の曲が毎日数百件も投稿され、広告を出しても埋もれてしまう。

供給過多、価格破壊、短尺文化の加速。

「1曲=価値」という概念は、すでに機能しなくなりました。

さらに、アーティスト自身が制作ソフトを扱うようになり、“ビートを買う”という文化自体が減少しています。

ビートメイカーという職能の縮小は、「ビートを通貨として売買する構造」が崩壊したことを示しています。


かつてビートは、作家の署名でした。

Dr. Dre、J Dilla、Nujabes。

名前を聞けば音が思い浮かぶ、そんな時代が確かにありました。

しかし2020年代半ば、SNS文化とAI生成環境はその意味を変えました。

いまのビートは “Nujabes type beat” “Metro Boomin type beat” といったタグによって模倣され、個性よりも「再現性」が評価される時代に入っています。

AIはその模倣を完璧に遂行し、「誰が作ったか」はもはや重要ではなくなりました。


AIによる自動生成は、楽曲制作の補助を超え、AIボーカル・AIミキシング・AIマスタリングまで連動する完全自動パイプラインを形づくりつつあります。

人間のビートメイカーは、作品を作る存在から、AIモデルを成長させるためのデータ提供者へと変わっていきました。

この転換こそが、ビートメイカーという職能の機能不全の本質です。


では、人間にしかできないこととは何でしょうか。

それは、音を作ることではなく、「音をどのように響かせるかを判断する力」です。

AIが生成したビートを前にして、「呼吸が浅い」「残響が硬い」「沈黙が足りない」と感じ取る感覚。

この微細な“身体知”の領域こそが、人間にしか持てない耳の働きです。

音を調整するのではなく、音と向き合う時間の重みを編集する。

そこに、エンジニアやアーティストの「魂を込める」行為が宿ります。


AI時代のビートメイカーは、もはやループ職人ではありません。

AIが作る音を社会と接続する“思想家”です。

音をキュレーションし、文脈をデザインする。

完璧な「素材(物)」を、聴き手に最も響く「物語(言語)」へと変換する。

AIが再現できないのは、「目的意識」や「問い」の部分です。

“なぜこの音を鳴らすのか”という理由の層にこそ、人間の意思と文化的責任が宿ります。


ビートメイカーの「消滅」は、終わりではなく進化です。

音を作る人間から、音に意味を与える人間へ。

録音技師や作曲家もまた、思想を持つ存在へと進化していく段階にあります。

AIが無数の音を生み出す世界のなかで、なお音に「静けさ」と「存在の重み」を見いだすこと。

それが、“ビートの再定義”であり、音楽の未来における人間の最後の居場所なのだと思います。


神宮前レコーディングスタジオ(Elekitel Project)

名古屋・神宮前駅 徒歩5分

公式サイト:https://www.elekitel.net/

2025年10月11日土曜日

身体性を伴う表現の臨界点 ―ナレーター・声優・アナウンサーが担う、AI時代の不可避な文化継承責任

2025年の秋、声の表現に関わる仕事がこれほどまでに時代の変化にさらされたことは、かつてありませんでした。AI音声や自動ナレーション技術が一般化し、ナレーターや声優、アナウンサーの仕事が「人間でなければならない理由」を問い直される時代が訪れています。

AIは声質やイントネーションを高精度で再現し、映像や広告の現場でも日常的に活用されるようになりました。リモート収録や編集ソフトの発展も相まって、表現活動の現場はこれまで以上に効率化され、「時間」と「コスト」で測られる領域が広がっています。

しかし、どれだけ技術が進化しても、人間の身体を通して発せられる声の奥行きや感情の震えを、AIが再現することはできません。声とは単なる音ではなく、身体全体がつくり出す現象です。呼吸、姿勢、筋肉の緊張、感情の波、それらが重なり合って初めて「生きた声」となります。

俳優の世界で語り継がれてきた「声優は、声優である前に優れた俳優であれ」という言葉は、まさにこの本質を示しています。AIが扱う声は過去のデータの平均でしかなく、いまこの瞬間に立ち上がる身体的な感動を生み出すことはできません。

MITやスタンフォード大学の研究では、人間の感情理解は身体の動きや呼吸と密接に関係していることが証明されています。つまり、感情を伝えるためには、身体を伴う発声が不可欠なのです。

それにもかかわらず、現代社会では、こうした身体性の価値を感じ取れる人が減っています。文化行政や制作現場での意思決定が、数字や効率に偏るほど、そこから「生の感動」が失われていきます。身体を通じた経験を持たない管理や評価の仕組みが、表現の現場を平準化し、創作の息づかいを奪っているのです。

哲学者メルロ=ポンティは「身体は世界を知覚するための道具ではなく、世界と私を媒介する存在である」と述べました。人間が世界を感じ取り、他者とつながるための根源には、身体が存在します。声の仕事も同じです。息や声を通して感情を伝えることは、人間が人間であることの証明です。

身体性を継承するには、記録ではなく継続が必要です。UNESCOの無形文化遺産条約でも、上演芸術は「継続的な実践」によってのみ守られると定義されています。つまり、声の表現を続けるという行為そのものが、文化の生命線なのです。

経済産業省『クリエイティブ産業レポート2024』でも、人間固有の身体表現を産業基盤に据える重要性が指摘されています。市場の中で生きた活動として継続することこそが、文化を未来へ渡す唯一の方法なのです。

AIがどれだけ進化しても、身体を介した感動だけは再現できません。

声を発すること、息を共有すること、それは人間が世界に存在する証です。

身体性の継続とは、文化の持続そのもの。

声を発するという営みは、人間が人間であることを確かめ続ける行為だと、私は思います。

神宮前レコーディングスタジオでは、そうした「身体を通した声の表現」を記録し、未来へ残すことを使命としています。AI時代においても、人間の声が持つ温度とリアルを、丁寧に伝えていきたいと考えています。

詳しくは神宮前レコーディングスタジオ公式サイト(https://www.elekitel.net/)をご覧ください。

2025年10月9日木曜日

クラシック音楽における「鏡像的アイドル」 ―― 2025年、静かな再生の現場から ――

クラシック音楽は、しばしば「衰退」と語られてきました。

しかし、実際の現場では、まったく別の現象が進んでいます。

伝統を継承しながらも形式を更新し、

かつて「権威」と呼ばれた音楽を**“日常の語彙”**として再び使う。

そんな若い演奏家たちによる新しいクラシックが、

静かに息づき始めています。

彼らはクラシック音楽を「守る古典」ではなく、

**“使うことのできる言語”**として扱っています。

SNSや動画プラットフォームで演奏を発信し、

コメント欄で聴衆と語り合い、

録音や映像で新しい聴取体験を設計する。

それは、クラシック音楽が再び社会の中で呼吸し始めた証拠です。


教育を受けた技術が社会に還元される時代

現代の若い演奏家たちは、

音楽大学で厳格な訓練を受け、

和声、発声、身体運用などを体系的に学んでいます。

しかし、彼らの出口はもはや「ホール」だけではありません。

クラシック音楽をメディアとして扱い、

“クラシックをやる人”ではなく“クラシックを使って語る人”へと変化しています。

TikTokやYouTubeで活動する演奏家たちは、

「発表の場がないから」ではなく、

社会のリズムに音楽を重ねるためにSNSを使っています。

彼らは、クラシック的訓練の身体性を持ったまま、

映像や語り、衣装や演出を音楽的表現として扱います。

一瞬の間合い、視線の動き、呼吸のタイミング。

それらすべてが“音楽”として構成されています。

クラシック音楽は、いまや**“聴かせる芸術”から“共感される芸術”**へ。

演奏家は舞台の上から降り、

聴衆と並走する時代を迎えています。


偶像は崇拝されるものから、共鳴されるものへ

十九世紀のリストやパガニーニ、二十世紀のカラスやグールド。

彼らは超絶的な技術で“人間の極限”を体現し、

神話のような存在となりました。

しかし、2025年の演奏家は「神話」ではなく「鏡」として立っています。

崇拝ではなく共鳴、熱狂ではなく共感。

コメント欄に寄せられる「ありがとう」や「あなたの音で前を向けた」という言葉。

それは、かつての“ブラボー”と同じ構造を持っています。

人が人に触発される瞬間。

その再現こそが、現代のクラシックを生き返らせているのです。

偶像とは、崇めるための像ではなく、

他者の中の美しさを映す鏡。

現代のクラシック演奏家たちは、

まさに「鏡像的アイドル」として、

聴く人の中にある音楽性を呼び覚ましています。


デジタル時代の「聴かれる身体」

クラシック音楽における身体は、

技術のための器であると同時に、倫理の器でもあります。

姿勢、呼吸、力の抜き方。

それらは、音と人間を結ぶ“美学と倫理”の融合でした。

AIが音程を整え、リズムを均一化する時代。

それでも音楽の本質は、AIが模倣できない「ゆらぎ」に宿ります。

音の間合い、息の震え、沈黙の美しさ。

それらは人間の時間そのものであり、

クラシック教育で培われた身体が社会に投げかける倫理的メッセージです。

演奏家は今、自分の身体を「社会に聴かせる楽器」として再構築しています。


技術の「純粋性」から「拡散性」へ

クラシックの発声法や奏法は、

すでに多様なジャンルへ拡張しています。

映画音楽、アニメ、舞台、VTuber、ナレーション、ゲーム。

そこに流れる“整えられた音”の感覚は、

クラシック教育の方法論に支えられています。

音を整える。

フレーズに呼吸を宿す。

音の中に倫理を置く。

それはクラシック音楽が持つ「誠実さ」と「秩序感」。

現代社会が失いつつあるものです。

クラシック音楽は今、芸術の枠を越えて、

社会の精神構造を支える基層技術へと変わりつつあります。


聴く人も、変わった

聴衆もまた変化しています。

かつてのように「受動的に聴く」だけではなく、

コメントし、拡散し、共鳴を可視化する。

いまの聴衆は、**“応答する主体”**です。

音楽は聴くものから、共に作るものへと変化しました。

つまり、現代のクラシック音楽とは、

「音を聴くこと」ではなく、

**“他者の中にある自分を聴くこと”**なのです。


光と影 ― 摩擦は文化が呼吸している証

新しい動きには、光と影が同居します。

・短尺動画が「深さ」を犠牲にしてしまう危険性

・SNSが「評価」を数値化し、報酬を伴わない労働を強いる構造

・教育機関が依然として“舞台中心”の価値観に縛られている現実

しかし、それらの摩擦は、音楽がまだ生きている証です。

芸術が社会と関わるかぎり、そこには常に摩擦が生まれます。

クラシック音楽はいま、確実に再社会化の途上にあります。


結語:静かな共鳴の時代へ

クラシック音楽の核心は、構造や形式ではなく、

**「人が人に感動する構造」**にあります。

リストの拍手も、カラスの涙も、SNSの「ありがとう」も、

根底では同じ感情を共有しています。

「あなたの音に触れて、自分の中の何かが動いた」――。

その瞬間が、クラシック音楽の生命そのものです。

それは派手な復活ではなく、

静かに世界に広がる共鳴の波。

クラシック音楽はまだ終わっていません。

むしろいま、ようやく「人の心に届く芸術」として、

再びこの社会に根を張り始めています。


神宮前レコーディングスタジオ

https://www.elekitel.net/

2025年10月8日水曜日

「メジャー/インディーズ」の機能不全と、〈声による社会的な儀礼〉としての録音文化 ――2025年におけるカラオケボックスとレコーディングスタジオの文化的等価性をめぐって――

音楽の世界で長く語られてきた「メジャー」と「インディーズ」という区分は、2025年のいま、ほとんど意味を持たなくなっています。

かつては資本や配給の規模で分かれていた両者も、制作から発表までがデジタル空間で完結する現代では、どこに所属しているかよりも「どのような関係の中で音が鳴るか」が価値の基準になっているからです。

音楽は、企業やレーベルの枠組みではなく、人と人との文脈の中で生まれ、響き、共有されるものへと変わりました。

この構造の変化は、産業の形を変えただけでなく、「声を通して互いを確かめ合う」という人間の根本的な行為のあり方をも変えています。

思い返せば、カラオケボックスはもともともっと素朴で親密な承認の場でした。

友人や家族と歌い合い、拍手を送り合う時間の中で、人は「自分がここにいる」という感覚を確かめていたのです。

しかし社会の構造が変化し、その小さな承認の循環はオンラインへと移行しました。

スマートフォンで声を録り、SNSや動画サイトに投稿する。

その反応の積み重ねが、かつての拍手や笑顔の代わりになっています。

録音スタジオという空間もまた、そうした変化の延長線上にあります。

スタジオはもはや「作品を作るための場所」ではなく、「声を記録し、社会の中で存在を確認する場所」へと変わりました。

カラオケボックスが即時的な共感を生む場だとすれば、スタジオはその共感を記録として社会に残す場です。

どちらも、人が声を介して自己を確かめ、誰かとつながるための装置であるという点で、等価な存在なのです。

近年、録音空間のあり方も変化しています。

大規模なスタジオが減り、代わりに集中を促す小規模・高密度な環境が増えています。

音を完璧に再現することよりも、一人の表現者が自分の内面と向き合う時間に重きが置かれるようになりました。

カラオケボックスもまた、そうした「内的集中の装置」としての性格を持っています。

また、音を形に残すこと自体が、今あらためて見直されています。

デジタルでの再生が当たり前になった時代に、アナログレコードの売上が伸び続けているのは、「触れられる音」「手元に残せる記録」を求める気持ちが生きているからでしょう。

音は発せられた瞬間に消えるものです。

録音とは、その不可逆な時間に抗い、失われゆく一瞬を社会の記憶として留める文化的な営みです。

レコーディングスタジオで録られる声も、カラオケボックスで歌われる一曲の痕跡も、どちらもその人の生きた時間を刻むものとして、同じ文化的構造の上に存在しています。

録音は単なる音の整音技術ではありません。

それは、人と社会の記憶を結び合わせ、時代の中に声を残していくための静かな実践です。

そして、その営みを支える録音技術者の役割も変化しています。

音響を管理する専門職ではなく、「表現と社会をつなぐ翻訳者」として、一人ひとりの声の奥にある想いを記録し、未来へ渡していく。

そこに、録音という仕事の新しい責務が生まれています。

神宮前レコーディングスタジオは、そうした変化を受け止めながら、これからも「声を録る」という文化の本質を丁寧に探り続けていきます。

声が生まれる瞬間を、社会の中でどう残していけるか。

その問いを、音の現場から発信していきたいと思います。

公式サイト:https://www.elekitel.net/

2025年10月3日金曜日

歌ってみた/AIカバーとYouTube開示義務 ― 安心して表現するために

2024年からYouTubeでは、新しいルールが導入されました。動画の中に「改変や合成された要素」が含まれている場合、公開時に申告する必要があるというものです。2025年7月には収益化の規定も改定され、このルールは完全に定着しました。

この仕組みはニュースや政治だけでなく、音楽分野にも関わってきます。特に「歌ってみた」や「AIカバー」のように人の声と技術が重なるジャンルでは、これまで以上に透明性が求められています。

【補正と合成の境界線を理解することが大切です】

音程やリズムを整える、歌い直しをせずに音符を修正する。これらは従来の録音編集と同じ扱いで、開示の必要はありません。

一方で、声質を別人のように変える処理や、AIによる自動コーラス生成、本人が歌っていない部分をAIがリアルに作り出す場合は「合成」とみなされ、開示が必要になります。

つまり、自分の声をベースにした補正は問題なく、存在しない声を生成したときだけ開示義務が生じるというのが現実的な整理です。

【責任の所在も整理しておきましょう】

開示の主体は動画を公開するクリエイター本人です。アップロード時にチェックを行い、必要があれば説明を加えるのは公開者の役割です。

ただし制作過程を最もよく知っているのはスタジオやエンジニアです。合成要素を含めて制作した場合、クライアントが意識せず公開すれば、後に問題化する可能性もあります。スタジオも「直接の義務主体」ではなくとも、透明性を支える立場としての役割を担います。

クライアントが持ち込む音源については、その生成過程をスタジオが知ることはできません。この場合の責任は完全に製作者本人にあります。ただし「このスタジオで仕上げた」と言及される可能性を考えれば、免責条項や申告欄を用意しておくのが望ましい対応です。

【新しいルールを伝える際には、堅苦しい説明ではなく安心感を示すことが大切です】

「規則だから従ってください」ではなく「削除されないための安心を整えています」と伝える。すべての人に一律で求めるのではなく、必要なときに柔らかく案内する。そして内部的に制作記録を残し、必要に応じて提示できる体制を整える。

これにより、クリエイターは余計な負担を感じずに創作に集中でき、スタジオは安心して制作を支えられる環境を提供できます。

【まとめると次の通りです】

・自分の声をベースにした補正や修正は従来通り問題ない

・存在しない声をリアルに生成した場合にのみ開示義務が発生する

・公開の責任はクリエイター本人にあるが、スタジオも透明性を支える役割を持つ

・義務ではなく安心としての支援体制を整えることが重要

透明性は新しい責務であると同時に、作品を守る盾でもあります。スタジオは「負担を増やす場所」ではなく「安心して表現できる場所」であるべきです。

神宮前レコーディングスタジオでは、このような視点から制作環境を整えています。安心して創作を続けたい方は、公式サイトもご覧ください。

👉 神宮前レコーディングスタジオ公式サイト

https://www.elekitel.net/

2025年10月2日木曜日

芸術の本質と二極化現象 ― 2025年における外的要因と文化的連続性の乖離をめぐって

2025年の文化環境を眺めると、「二極化」という言葉が自然と浮かびます。大型フェスやスタジアム公演などには巨額の資本が集中し、同時に短尺動画や即時消費型のコンテンツが日常を占めています。その一方で、地域の祭りや中規模の公演は、物価高騰や人件費の上昇により縮小や中止を余儀なくされる場面が増えてきました。

消費者の行動にも同じ傾向があります。普段は短尺動画で軽く楽しみ、特別な機会には長尺の映画や舞台、ライブに没入する。こうした二極化の流れの中で、「ほどよい規模」「ちょうどよい時間感覚」の文化活動は成立しにくくなっています。

しかし、本来の芸術は二極化を前提にしてきたわけではありません。人間は本能的に歌い、踊り、絵を描いてきました。日本の民謡や盆踊りもその一例であり、農耕や生活の中から自然に生まれ、共同体の一体感を確かめる役割を果たしてきました。そこにプロとアマの境界も、大きな資本の大小も関係はありませんでした。

やがて突出した表現者が共同体の中で認められ、貨幣経済の流れの中で芸能や産業として発展していったのです。つまり芸術は「誰もが参加できる普遍性」と「特別に認められる特異性」が連続する中で育ってきました。

現在進行している二極化は、芸術そのものの本質ではなく、資本経済や行動経済、そしてテクノロジーがもたらした外的要因にすぎません。円安や物価高によるコスト増大は、大規模事業と小規模事業の格差を広げ、中規模の活動を最も脆弱にしています。また、生成AIの発展は制作の初期コストを下げる一方で、短尺コンテンツの供給を加速させています。結果として、中規模の文化体験はますます選ばれにくくなっているのです。

重要なのは、これらの現象を「芸術の本質」と誤解しないことです。芸術は本来、人間の表現衝動と共同体的な承認の中で育まれてきました。外的要因による二極化をそのまま受け入れてしまうと、芸術は「巨額資本を要する産業」か「消費される軽量コンテンツ」の二択に矮小化されてしまいます。

では、どうすれば中規模の健全な営みを支えることができるのでしょうか。具体的な方法としては、世代に合わせた柔軟なチケット設計、公式リセールによる空席削減、大学や企業との共同制作モデル、クラウドファンディングによる資金調達と観客参加の同時実現などがあります。さらに、民謡や郷土芸能のように「共同体全員が担い手となる仕組み」を現代に応用することも可能です。

芸術は、分断の結果ではなく、分断を超えて人をつなぐ存在です。歌や踊りや絵がそうであったように、芸術には人と人を橋渡しする力があります。だからこそ今、二極化を冷静に外的要因と見極め、中規模の文化活動を意識的に支えることが重要なのです。

神宮前レコーディングスタジオでは、この「橋を架ける芸術の力」を大切にしています。表現に込められた音や言葉が人をつなぎ、文化を未来に届ける。その営みをこれからも模索し続けていきたいと思います。

公式サイトはこちらからご覧ください。

https://www.elekitel.net/