AIが作った音楽や映像を耳にすることが当たり前になりました。
どれも整っていて、音も美しく、構成にも無駄がありません。
けれど、それらを聴いて「心が震えた」と感じることは、驚くほど少ないように思います。
それは好みの問題ではなく、「人の心の動き」が表現の中に存在していないからです。
かつてのテレビコマーシャルやアニメーションには、制作者の呼吸や迷い、挑戦の跡がありました。
一瞬の間(ま)や、意図の見え隠れする演出の中に、“人の気配”がありました。
その痕跡が、見る人の想像力を刺激し、共感や反発を生み、心を動かしていたのだと思います。
感動とは、他者の心の運動を感じ取ったときに生まれるものです。
そして、その運動が見えなくなったとき、人の心は動かなくなります。
最近の心理学実験では、「これはAIが作曲した」と知らされるだけで、同じ音楽でも人が感じる感情の深さが減少することが報告されています。
音の完成度ではなく、“誰が作ったのか”という背景の存在が、感情の受け取り方を左右する。
この事実は、人間の創作に宿る「軌跡」の重要性を裏づけています。
スウェーデンの音楽心理学者ジュスリンは、音楽が人の感情を動かす仕組みをいくつかに分類しました。
その中でも「感染(emotional contagion)」と呼ばれる現象があります。
演奏者の呼吸、テンポの揺らぎ、ほんの少しのためらい。
そうした身体的な動きが、聴き手の内部に伝わり、共鳴を起こす。
これは、AIがどれほど精密に再現しても、置き換えられない“人の生きた動き”です。
一方で、私たちが日々触れているSNSや広告は、「滞在時間を最大化する」ように設計されています。
人の注意をどれだけ長く引きつけるかという仕組みの中では、立ち止まる余白が削ぎ落とされます。
しかし、心が動くためには、その“余白”こそが欠かせません。
感動は、効率とは逆の場所に宿るものだからです。
広告の世界でも、感情に訴える表現が長期的な成果を生み出すことが証明されています。
一見非効率に見える「情緒的な表現」こそが、ブランドの信頼や価値を支える。
つまり、感動は決して“無駄”ではなく、社会の持続性を生む合理そのものなのです。
そして今、AIによる創作支援が文化や著作権のあり方を揺さぶっています。
国際機関UNESCOのガイドラインでは、人間の創作意図を明示し、文化的多様性を守る重要性が示されています。
これは技術の問題ではなく、「人の経験の運動をどう継承するか」という問いそのものです。
私は、表現文化を守るということは、作品を保存することではなく、
「誰かの心が動いた軌跡を、他の誰かが追体験できるようにすること」だと思っています。
AIが生み出した整った表現に、人が意味を吹き込む。
その相互作用の中にこそ、これからの創造の希望があります。
心を動かす表現とは、技術や形式ではなく、「人の心が動いた痕跡」を感じ取れる構造のことです。
AIが作った作品がどれほど美しくても、「感動した」とは言われないのは、その痕跡が存在しないからです。
これからの時代に大切なのは、人の手が介在した“未完成の美”を残すこと。
その揺らぎこそが、他者と感情を共有する唯一の通路であり、
それを失えば、私たちは「心の動き」そのものを失ってしまうのかもしれません。
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