2025年8月31日日曜日

言語化経済の光と影──AI時代における言葉の力と危うさ

 


言語化経済の光と影──AI時代における言葉の力と危うさ

言語化経済の光と影──AI時代における言葉の力と危うさ

2025年という時代を迎えて、私たちの暮らしや仕事はAIによる加速的な変化のただ中にあります。そのなかで改めて強く意識するのは、「言葉」というものの持つ力です。私はこれを「言語化経済」と呼んでいます。

言語化経済とは、単なる発言や文章がそのまま経済的行動に直結していく社会のことです。SNSでの発信やブログの一文が、AIによって収集・再編集され、評価や価値の基盤になる。意図的に整えた言葉だけでなく、思わずこぼれた発言や何気ない表現までもが「資源」とされる現実が、私たちの周りに広がっています。

プロンプト経済との違いと危うさ

この構図は「プロンプト経済」と大きく違います。AIに指示を与えるプロンプトは、整理された意図的な言語です。一方で言語化経済は、意図しない言葉さえ切り取られ、評価や市場の一部に組み込まれる。その危うさは、まだ十分に語られていません。

音楽とスタジオ文化への影響

音楽やスタジオ文化に目を向けると、この変化はさらに鮮明です。かつてスタジオは「音を形に残す場所」でした。ところが今は、アーティストがスタジオで語った一言、制作中の雑談でさえもSNSを通して広まり、評価やイメージを左右してしまう時代になりました。

神宮前レコーディングスタジオを運営しながら日々実感するのは、音だけでなく、そこに添えられる「言葉」までもがアーティストの存在証明となるということです。そして、スタジオという空間が「言葉と音をつなぐ媒介地」としての役割を強めている現実でもあります。

言語化経済の問題点

  • スピードやインパクトが重視され、思考の深さが軽視される。
  • 第三者の批評や検証の余地が減り、AIによる収集と評価が主軸になる。
  • 不用意な発言が過剰に切り取られ、誤解や炎上の火種になる。

未来に向けて

言語化経済の中で生きることを避けることはできません。しかし、私たちは「どの言葉を選び取り、どう差し出すか」を意識的に決める主体であり続けられるはずです。音楽や表現が本来持つ身体性や実存を守り抜き、魂を宿した言葉を差し出すことが必要です。

技術の進歩は常に社会を揺らし、抵抗と同調を繰り返しながら「新しい常態」へと落ち着いてきました。AIと共に生きるこの時代、問われているのは「どこに人間の存在証明を残すのか」という一点に尽きるのではないでしょうか。

言葉と音が交わる場所で過ごしてきた者として、この問いに真剣に向き合い続けることが、未来への責任であると考えています。


神宮前レコーディングスタジオ(名古屋市)より発信しています。

2025年8月28日木曜日

路上ライブは「社会性」を失ったのか──コロナ以降の変化と未来

 

はじめに

路上ライブやストリートパフォーマンスは、長年にわたり「偶然の出会い」と「社会との交差」を生む文化でした。
しかし2025年の今、その意味は大きく変化しています。本記事では、路上演奏の変遷を整理し、コロナ以降に起きた転換点を踏まえながら、これからの課題と未来を考えます。


路上ライブの原点──偶然性と社会性

かつての路上ライブは、**「どれだけの人が足を止めるか」**で力を試す場でした。
通行人に直接声を届け、時に無関心や批判にさらされることこそ、音楽が「社会性」を持つ証でした。
偶然に生まれる拍手や出会いが、アーティストにとって大きな糧となっていたのです。


コロナ禍による決定的な転換

2020〜2021年のコロナ禍は、路上演奏やライブハウスの活動を中断させました。
その代わりに広がったのが、**オンライン配信やバーチャル・バスキング(投げ銭)**です。
YouTube Super Chat、TikTokギフトなど、収益の中心は通行人ではなく画面の向こうへと移行しました。

この時期を境に、路上は「観客の前で演奏する場所」から「撮影現場」へと役割を変え始めます。


路上=撮影現場となった2022年以降

2022年以降、路上での活動はSNS前提へと完全にシフトしました。

  • TikTokのCreativity Program(2023年〜)で長尺動画が優遇

  • YouTube Shortsの収益分配(2023年導入)

こうした制度により、短尺動画の「素材収集」として路上を利用するアーティストが増加しました。
三脚カメラの前で歌う姿は珍しくなくなり、通行人は観客ではなく**「背景」**となりつつあります。


世界のストリートパフォーマンスの現状

  • ニューヨーク:「MUSIC UNDER NEW YORK」でライセンス制。治安リスクも増加し、SNS撮影前提の活動が中心に。

  • ロンドン:「Busk in London」で音量や混雑を管理。SNS向けの映像収録を行う演者が増加。

  • 東京:「ヘブンアーティスト制度」は再開後、場所や時間が厳格化。新宿駅前では禁止にもかかわらず“聖地化”し、SNS配信前提の活動が論争を呼んでいます。


神宮前レコーディングスタジオの視点──社会性の危機

私たち神宮前レコーディングスタジオは、路上表現者を応援する立場にあります。
しかし同時に、**「社会性の崩壊」**に強い危機感を抱いています。

路上ライブは本来、公共空間の中で人と人が交差する場であり、音楽を社会に接続する営みでした。
それが今、個人の配信のための素材撮影に置き換わりつつあります。
このままでは、路上の文化的意義そのものが失われてしまうでしょう。


未来への課題と展望

  1. 社会性の再導入
    公認エリアやイベントと連携し、「観客と共にある」仕組みを設ける。

  2. 偶然性の回復
    SNS向けであっても、通行人の反応や環境音をあえて残すことで公共性を保つ。

  3. スタジオとの連動
    路上での演奏を「ネタ出し」で終わらせず、録音・作品化するサイクルを作る。


結論

路上は「偶然の社会空間」から「個人の撮影現場」へと姿を変えました。
しかし、路上が本来持つ社会性や偶然性を取り戻すことは可能です。

神宮前レコーディングスタジオは、路上表現者を応援しながらも、この危機感を共有し続けたいと思います。
なぜなら、公共空間で鳴る音楽には必ず「社会との関係性」が刻まれるべきだからです。


2025年8月27日水曜日

アメリカにおけるプロジェクトスタジオの現状と課題──日本のレコーディングスタジオが進むべき未来とは


 

アメリカにおけるプロジェクトスタジオの現状と課題──日本のレコーディングスタジオが進むべき未来とは

アメリカで進むプロジェクトスタジオの値崩れ

アメリカの小規模レコーディングスタジオ、いわゆるプロジェクトスタジオは、近年大きな変化に直面しています。
かつて2000年代中盤には1時間あたり 60〜100ドル(約9,000〜15,000円) が相場でしたが、2025年現在では 25〜50ドル(約3,750〜7,500円) にまで低下しました。

背景には、

  • 高性能な宅録環境の普及

  • DAWやプラグインの低価格化

  • AIによる自動編集・ミックス技術の進展
    があります。結果として「わざわざスタジオに行かなくても制作できる」環境が整ったのです。

市場規模と新しいスタジオの姿

市場規模自体は依然として大きく、米国のレコーディング産業全体は 612億ドル規模 を維持しています。しかしその収益構造は変化し、単価が低く案件数で補う 薄利多売モデル となりました。

また、新しい動きとして「録音スタジオを併設した集合住宅」や「シェア型宅録空間」の登場が注目されています。これは、スタジオが単なるレンタルスペースから「暮らしに統合された空間」へと役割を変えつつあることを示しています。

日本のレコーディングスタジオへの影響

日本の小規模スタジオも例外ではありません。
たとえば 神宮前レコーディングスタジオ の基本料金は1時間4,200円(税込)。これは現在のアメリカのプロジェクトスタジオの水準とほぼ重なります。すなわち、日本のスタジオもすでに「国際的な価格競争の土俵」に立っているといえます。

今後は価格勝負ではなく、

  • AIにはできない付加価値

  • 人間ならではの感性や判断
    を明確に打ち出すことが生き残りの鍵となります。

AIが奪えないスタジオの価値

AIは効率的な編集や補正を担うことはできますが、次のような「実存的価値」は再現できません。

  • マイクを通じて残る声のかすれ

  • 演奏者同士の呼吸感

  • ブースの空気やノイズの質感

  • ライブ収録時の緊張感や偶発性

これらは「一度きりの瞬間」であり、スタジオという空間にしか刻めないものです。

神宮前レコーディングスタジオの未来展望

神宮前レコーディングスタジオは、これらの現状を踏まえて次の発展を目指しています。

  • 単なる録音サービス提供にとどまらない 教育的ワークショップ の実施

  • アーティストが安心して「存在理由」を取り戻せる 表現の場の提供

  • AIと人間の境界をデザインし直す 新しい制作環境の提示

スタジオの役割は「録音する場所」から「人間の存在証明を残す場所」へと変わりつつあります。

まとめ

歴史を振り返れば、印刷革命や産業革命、録音技術やインターネットの普及など、新しい技術は常に抵抗を受けつつも、最終的には社会に組み込まれてきました。AIも例外ではなく、音楽制作に深く入り込むでしょう。

しかし、その中で「人間の存在証明をどう残すか」を考えることこそ、今のレコーディングスタジオの使命です。神宮前レコーディングスタジオもまた、この課題に正面から向き合い、未来へと文化をつなげていきたいと考えています。

2025年8月26日火曜日

AI時代に問われる「存在価値の再定義」──音楽スタジオから見える未来

 

AI時代に問われる「存在価値の再定義」──音楽スタジオから見える未来

2025年のいま、音楽業界・放送業界・舞台芸術のあらゆる領域で、AIの存在は避けて通れないものとなりました。AIによる作詞・作曲・歌唱、編集、ミックスはすでに実用段階に入り、従来のスタジオワークは大きく揺さぶられています。本記事では、歴史的な技術革新との比較を通じて、スタジオ文化における「存在価値の再定義」を考えます。


技術革新の歴史と抵抗のパターン

新しい技術が登場するたびに、必ず「抵抗」と「同調」が繰り返されてきました。

  • 印刷革命では知識が解放され、検閲や弾圧を経て「言論の自由」という理念が確立。

  • 産業革命では職人が機械に仕事を奪われましたが、労働組合や社会保障が整備されていきました。

  • 録音技術の普及では「レコードは魂を削る」という批判を乗り越え、大衆音楽産業が成立しました。

  • インターネット革命ではCD市場の崩壊がありましたが、SpotifyやApple Musicといった新モデルが台頭しました。

  • 遺伝子工学もまた強い倫理的批判を受けましたが、制度の下で限定的に活用されています。

これらに共通するのは、技術は必ず抵抗を受けながらも、最終的には「規制や倫理を伴って社会に組み込まれる」という流れです。


AIと音楽制作──必然の構造

AIがもたらすインパクトは、これまでの歴史と同じ構造を持ちながらも、その速度と広がりにおいて圧倒的です。

  • 完璧な補正や効率化は「経済的合理性」によって急速に受け入れられる。

  • 一方で、録音スタジオが担ってきた「声のかすれ」「偶発的な演奏」「ブースの空気感」などの実存的な価値は、AIでは代替できません。

つまり、抵抗すべきは技術そのものではなく、「どこを人間の領域として残すのか」という線引きなのです。


スタジオ文化と存在価値の再定義

2025年のスタジオに課せられているのは、AIに抗うことではなく、AIとの境界をデザインすることです。

  • 経済的必然としてAIは導入される。

  • しかし 文化的必然として、人間にしか担えない領域が残される。

ここで問われるのが「存在価値の再定義」です。エンジニアやプロデューサーは、単に音を整える役割ではなく、人間とAIの境界を守り、設計する存在として再定義される必要があります。


結論──共存のための三段階

AIの普及は避けられません。しかし、その道筋は直線的ではなく、必ず以下の三段階を経ます。

  1. 抵抗と批判

  2. 倫理と規制の整備

  3. 妥協と適応

この過程を通じて、やがて「人間とAIが共存する新しい常態」に落ち着きます。文化は経済に飲み込まれるのではなく、時間差で「新しい制御装置」として組み込まれるのです。


終わりに

いま問われているのは、「我々はどこに人間の存在証明を残すのか」ということです。AIへの同調は歴史的必然ですが、その中で人間が担うべき価値を問い続けることこそ、未来を切り拓く条件になるのだと思います。

2025年8月25日月曜日

国立劇場と録音・放送・舞台芸術──文化と技術を未来へつなぐために

 

国立劇場と録音・放送・舞台芸術──文化と技術を未来へつなぐために

国立劇場と録音・放送技術の出発点

録音技術や放送技術は、単に音楽制作のために発達したわけではありません。
その出発点は、実は「舞台芸術」にあります。
マイクロフォンは舞台上の声を遠くまで届けるために生まれ、スピーカーはその響きを支えるために発展しました。テープやレコードといった記録媒体もまた、舞台芸術の一瞬を残すための道具として広まってきました。

つまり国立劇場は、舞台を支える場であると同時に、録音や放送の技術基盤を育ててきた場所でもあるのです。舞台芸術と技術は切り離せない関係にあります。

国立劇場の再整備と課題

現在、国立劇場の再整備をめぐる議論が進んでいます。
しかし、その議論の多くは「費用対効果」や「動員数」といった経済的な指標に偏っています。本来問われるべきは、「国立劇場を失ったときに何が消えてしまうのか」という視点ではないでしょうか。

舞台芸術は、日本の音声表現や身体表現の結晶であり、記録・継承・発信が不可欠です。国立劇場の存在は、舞台業界だけでなく、音楽・放送業界にとっても未来を左右する大きな課題といえます。

世界の舞台芸術との比較

海外に目を向けると、ロンドンのナショナル・シアターやニューヨークのメトロポリタン歌劇場では、舞台を映画館やオンラインで配信する仕組みが整備されています。
舞台を「その場限りの体験」とせず、保存と発信を同時に実現しているのです。

一方、日本ではアーカイブや配信が十分に整備されず、結果として世界的な舞台発信の潮流から遅れをとっています。舞台を閉じた文化のままにしておくことは、長期的に見て大きな損失につながるでしょう。

国立劇場が抱えるリスク

もし国立劇場が十分に機能しなくなれば、次のようなリスクが想定されます。

  • 舞台の記録や研究の基盤が途切れ、次世代への継承が困難になる

  • 世界における日本の舞台芸術の存在感が低下する

  • 舞台を相手に育ってきた録音・放送の技術者たちが実践の場を失う

これは舞台業界だけの問題ではなく、録音や放送、さらには音楽文化全体に波及する重大な課題です。

録音・放送業界にとっての国立劇場の意味

サウンドエンジニアの立場から見れば、舞台芸術は録音技術の母体であり、実践の場そのものです。舞台が弱体化すれば、録音の対象もまた失われます。
舞台をどう伝えるかという問いに応える中で育ってきた技術の系譜を守ることこそ、国立劇場の存在意義でもあるのです。

未来に向けた提言

国立劇場の再整備を考える上で、求められるのは「保存と発信の両立」です。
舞台の「生の力」を守りながら、その魅力を広く発信し、文化を次の世代へとつなぐこと。

国立劇場の問題は、単なる建物や予算の話ではなく、「文化と技術を未来にどう橋渡しするのか」という問いそのものです。

私たち一人ひとりが、この問いに向き合うことが、日本の文化を守り育てる第一歩になるのではないでしょうか。


2025年8月24日日曜日

林美雄アナウンサーの功績と影響──パック・イン・ミュージックが遺した文化的遺産

 

林美雄アナウンサーの功績と影響──パック・イン・ミュージックが遺した文化的遺産

林美雄アナウンサーと「サマークリスマス」

TBSラジオの名物アナウンサーとして知られる林美雄さんは、そのユーモラスでサブカルチャー的な感覚を象徴する言葉を残しました。
「夏にクリスマスがあってもいいじゃないか。ついでに僕の誕生日も祝って!」
この言葉が後に「サマークリスマス」というイベントへと発展し、彼の命日をしのぶ集まりの象徴となりました。文化と日常を軽やかに接続するこのセンスこそが、林さんの持ち味だったのです。

パック・イン・ミュージックと文化の発掘

林美雄さんが担当した深夜番組『パック・イン・ミュージック』は、1970年代から80年代にかけて高校生や大学生を中心に圧倒的な支持を集めました。まだ「サブカルチャー」や「オタク文化」といった言葉が存在しなかった時代に、林さんは新しい表現や周縁的な文化を積極的に紹介し続けました。
重要なのは、彼が批評や評論を避け、あくまでも「紹介」に徹したことです。評価の軸を押し付けず、聴き手に想像と判断を委ねたからこそ、未知の表現が自然に受け入れられ、やがて広がっていったのです。

反商業主義と公共性の両立

林さんの立場は民放アナウンサーでしたが、そこに徹底した「反商業主義」の姿勢がありました。スポンサーや広告の色を前面に出さず、自身の趣味や好奇心をベースに番組を組み立てる。その結果、資本主義的な構造の中で、むしろカウンターカルチャーの旗振り役へと変貌していきました。
これは大きな矛盾をはらんでいます。しかしその矛盾を抱え込んだまま声を届けたからこそ、結果的に文化的な誠実さが際立ったのです。

個人的体験と林美雄の影響

私自身もまた、兄が録音してくれたカセットテープを通じて林さんの放送に出会いました。中学生の私にとって、そのラジオは未知の文化への扉でした。遠い地方にいながら関東圏の最新カルチャーを耳で知る体験は、後の人生を決定づけました。
現在、私は音楽制作やレコーディングスタジオ経営、さらに古書店運営に携わっています。その根っこをたどれば、林美雄アナウンサーの声と紹介のスタイルにたどり着きます。

林美雄が掘り起こした未来

林さんが紹介したアーティストや文化は、当時はマイナーで反商業主義的な立ち位置にありました。しかし時が経つにつれ、それらは日本のメインカルチャーに育ち、多くの才能を世に送り出しました。松任谷由実さんが追悼の場で語ったように、林さんは「オタク文化の基礎を作った人」とも言えます。

2025年の視点から林美雄を考える

現代の私たちは、SNSや配信サービスを通じて膨大な情報に囲まれています。誰もが発信者になれる一方で、何を選び、どう受け止めるかが難しい時代です。その時代にこそ必要なのは、林美雄さんが体現した「紹介の力」でしょう。
評価や断罪を急ぐのではなく、文化の可能性に光を当て、次世代へ橋渡しすること。その役割は、いまも私たちの社会に必要とされています。

結論──林美雄の遺産とこれから

林美雄アナウンサーは、単なる放送人ではありませんでした。彼は「文化の媒介者」であり、多様な表現を未来につなぐ存在でした。その功績は、現代に生きる私たちにとって大きな指針となります。
文化を紹介すること、批判ではなく光を当てること。その姿勢を引き継ぐことこそ、2025年を生きる私たちの課題であり、未来へと文化をつなぐ方法なのだと強く感じます。


2025年8月23日土曜日

ヒップホップと「紙とペン」の象徴性──スマホ時代における作詞の意味を考える


 

ヒップホップと「紙とペン」の象徴性──スマホ時代における作詞の意味を考える

2025年のいま、音楽制作の現場ではほとんどの作業がスマホやPCで完結します。録音からミックス、さらには作詞やアイデアメモまで、クラウドに保存してすぐに共有できる。そうしたデジタル環境は、ヒップホップや「歌ってみた」制作のスピードを飛躍的に上げてきました。

しかし、その一方で「紙とペン」は依然として特別な意味を持っています。ヒップホップの世界において紙とペンは単なる作詞のツールではなく、文化を象徴する存在であり続けています。ここでは、その背景と現代的な意義、さらにスタジオ現場から見える実感をまとめたいと思います。


紙とペンはなぜヒップホップの象徴なのか

ヒップホップは1970年代のブロンクスから始まりました。ラッパーがリリックを書き留める最初の手段は、まさに紙とペンでした。マイクやターンテーブルと並ぶほど、文化的なアイコンとして根付いたのです。

「紙に書く」という行為は、単なる記録ではなく「思考をその場に定着させる」ことでした。ペンの筆圧やインクのにじみは、ラッパーの感情や緊張をそのまま刻みます。均質化されたデジタルテキストとは違い、そこには身体性と痕跡が残る。それが「自分の声を見える形にする」という意味を持ちました。


スマホ時代における作詞の変化

現在、多くの若いラッパーやシンガーはスマホのメモアプリでリリックを書きます。検索性に優れ、バックアップも簡単で、どこでもアイデアを記録できるのは大きな利点です。YouTubeやTikTokに直結する形で制作できる点も、現代の音楽文化に合っています。

しかし「スマホだけでは仕上がらない」と語るアーティストも少なくありません。リズムやフロウを整理するとき、画面上のテキストでは見えなかった違和感が、紙に書き出すと突然浮かび上がることがあります。改行や文字の大きさ、殴り書きのリズムが、そのままラップの抑揚に変換されるからです。

つまり、紙とペンとスマホは対立するのではなく、補完し合う関係にあるのです。


書くことと人間の本能

心理学的にも「書く」行為は特別な意味を持ちます。手を動かして文字を書くことで、脳の広い領域が活性化し、記憶や創造性が強く刺激されます。これはタイピングでは再現できない効果だといわれています。

人類の歴史を振り返っても、洞窟壁画や碑文の時代から「痕跡を残す」ことは自己表現と結びついてきました。ラッパーがリリックを紙に残すことも、その延長線上にあります。AIが歌詞を生成する時代になっても、殴り書きされた文字には「誰が」「どの瞬間に」書いたかという温度が宿ります。


スタジオ現場から見える「紙とペン」の力

私が運営する名古屋の神宮前レコーディングスタジオでも、紙とペンの存在感は健在です。

たとえば「歌ってみた」を録音する若いシンガーの多くは、最初はスマホで歌詞を表示して歌います。しかし何度か録音を繰り返すうちに、「やっぱり紙に印刷してほしい」と言う方が少なくありません。理由を聞くと「紙だと息づかいやアドリブを書き込みやすい」「ページをめくる感覚が集中につながる」と話してくださいます。

プロのラッパーの中には、スタジオに入る直前までノートにリリックを書き殴り、レコーディングブースにそのまま持ち込む人もいます。そのページを見れば、その曲がどんなテンションで生まれたかが一目で伝わるのです。これはデータ上の歌詞ファイルでは絶対に得られない「質感」だと感じます。


音楽表現と存在証明

AIが歌詞を量産するようになり、音楽制作の効率は飛躍的に向上しました。しかし「なぜこの言葉を自分が書くのか」という根本的な問いには、AIは答えることができません。

紙とペンは、その問いに答えるための行為です。書き殴られた文字、消されたフレーズ、ページの端に走り書きされた言葉。それらはすべて「自分がここにいた」という存在証明になります。

ヒップホップにおいて紙とペンが象徴である理由は、単なる道具の便利さではなく、その痕跡性にあるのです。


結論:紙とペンとスマホの共存が未来を開く

音楽出版文化が大きく変わり、ストリーミングやSNSが中心となった2025年においても、紙とペンの象徴性は消えていません。むしろスマホやAIと組み合わせることで、その存在は新しい意味を持っています。

「デジタルで効率化しつつ、アナログで痕跡を残す」。その両立が、現代の音楽表現にとって最も豊かな形なのかもしれません。

名古屋の神宮前レコーディングスタジオでも、これからも紙とペンを活かした作詞やリリック制作を大切にしつつ、最新のデジタル環境も整えてお客様をお迎えしています。

2025年8月22日金曜日

 

矢野誠一と渋谷陽一──文化と経済をつなぐ役割と「役割の再定義」

2025年、演芸評論家の矢野誠一さんと、音楽評論家でありロッキンオンを率いた渋谷陽一さんが、相次いでこの世を去りました。両者の存在は、それぞれ異なる領域でありながら、日本の文化を形作る上で大きな役割を果たしました。ここではお二人を「影響力を強く持った公の立場に近い経済人」として捉え直し、その功績と功罪、そして現代との関係を考えてみたいと思います。

矢野誠一さんは、演芸評論を通じて落語や演芸を文化的資産として広く社会に伝えました。評論活動によって芸の魅力を言語化し、学術的な記録として残したことは大きな功績です。しかし一方で、伝統を守るがゆえに「古典を神聖化しすぎる窮屈さ」も生んだと言えるでしょう。

渋谷陽一さんは、ロッキンオンを通じて日本のロック文化を照射しました。読者投稿を積極的に採り入れた誌面づくりや、独自の評論スタイルは、音楽を「娯楽」から「生き方の一部」へと昇華させました。その一方で、評価軸が狭く、一極集中的な文化観が日本のロックの多様性を抑えたのではないかという議論もあります。

お二人に共通しているのは、「文化を言葉にし、世に広め、経済活動とも結びつける媒介者」であった点です。評論や編集は、単なる記録ではなく、文化の方向性を決定づける力を持っていました。

しかし、2025年の今、その存在には違和感も覚えます。現代は誰もがSNSで発信し、評論できる時代です。ひとりの評論家や編集者が「文化の代表」として語ること自体が、時代に合わなくなっています。権威的な発信から、分散的で多声的な文化共有へと流れが移っているのです。

もし現代に矢野さんや渋谷さんのような影響力を持つ人物が登場するとすれば、それは「一人の強い声」ではなく、「多数の声をつなぎ、整理する存在」であるでしょう。批評家や編集者というより、コミュニティの編集者。支配ではなく対話、評価の独占ではなく多様性の媒介。そうした立場でなければ、現代社会に受け入れられないのです。

矢野誠一さんと渋谷陽一さんの功績は、文化を言葉で残し、音楽や演芸を生活の中に浸透させたことにあります。その一方で、現代の私たちに課された課題は、「誰が文化を語るのか」ではなく、「私たち一人ひとりがどのように語り、受け止め、残していくのか」という問いです。

神宮前レコーディングスタジオもまた、その文脈の中で存在しています。音楽を記録し、残し、届ける。その営みの中には、過去の批評文化と同じように「媒介者」としての責任があります。威圧でも沈黙でもなく、表現者が自身の存在理由を語れる環境をつくること。それが、スタジオが担う「役割の再定義」であり、次の世代へ文化をつなぐ条件だと考えています。

2025年8月21日木曜日

ロッキンオンとは何だったのか ─ 日本のロック文化に与えた功罪

ロッキンオンとは何だったのか ─ 日本のロック文化に与えた功罪

ロッキンオン創刊と日本ロック文化への影響

1970年代に創刊された音楽雑誌『ロッキンオン』は、日本のロック文化を語るうえで欠かせない存在です。誌面では海外ロックの紹介や批評が大きな役割を果たし、日本の若者に「音楽を語る文化」を広めました。特に読者投稿や若い批評家による熱量ある文章は、音楽を単なる娯楽から社会参加の手段へと押し上げる装置となりました。

読者投稿文化とSNSの先駆性

ロッキンオンのユニークな点は、読者による突然的な投稿が誌面に大きな影響を与えたことです。投稿者の熱い言葉が洋楽アーティストや日本のロックシーンをめぐる議論を喚起し、ある意味で現在のSNS的な「自己顕示欲」や「承認欲求」の先駆けになっていました。この点は、今日のTikTokやInstagramと驚くほど通じる部分です。

偏ったフィルターが残した功罪

ただし、功績の裏側には問題点も存在しました。誌面ではイギリスのロックが「正統」とされ、アメリカの音楽やその他のジャンルは十分に取り上げられない傾向がありました。結果として、日本のロック批評は特定の価値観に強く寄り添い、多様性を削いだ側面も否めません。さらに、熱狂的な議論が事実や背景を無視した「正義」として流布される場面もあり、冷静な批評性や校閲性の欠如も指摘されてきました。

ロッキンオン・フェスの拡大と商業化の逆説

1990年代以降、ロッキンオンは音楽フェス事業へと拡張しました。巨大なイベントを通して音楽を広める一方で、かつて「反商業」を掲げていたロックが「体験消費」へと変わる逆説を生んだのです。これは音楽が思想からイベント消費へと変質する象徴的な出来事であり、音楽文化を広げつつ枠にはめ込むという二重性が浮き彫りになりました。

ロッキンオンがなければ育ったかもしれない文化

ロッキンオンがなければ見えなかった景色があった一方で、もし別の仕組みが育っていれば、もっと多様で芳醇な音楽文化が広がっていた可能性もあります。すなわちロッキンオンは「文化を育てた存在」であると同時に「文化を制約した存在」でもあったのです。この矛盾は、現在の日本の音楽批評やシーン形成を考えるうえで無視できません。

SNS時代に繰り返される構造

現在のSNSに目を向けると、ロッキンオンが抱えていた構造が繰り返されていることに気づかされます。誰もが自由に音楽を語れる一方で、アルゴリズムが選択肢を狭め、評価は「いいね」や再生数に置き換えられてしまいました。熱量があっても批評性が薄れ、多様性が埋もれる状況は、ロッキンオン的な功罪の延長線上にあると言えるでしょう。

まとめ:ロッキンオンが残したもの

ロッキンオンの歴史を振り返ることは、単なる過去の検証ではありません。むしろ、今の音楽表現やその受け止められ方を理解するための手がかりであり、これからの音楽文化をどう育てるかを考えるための鏡でもあります。ロッキンオンが残した功罪を検証することは、日本の音楽の未来を見据えるために不可欠なのです。

 

2025年8月20日水曜日

音楽出版文化の崩壊と2025年の音楽の価値 ―偶然性を失った音楽と、表現者が直視すべき現実―

 

音楽出版文化の崩壊と2025年の音楽の価値
―偶然性を失った音楽と、表現者が直視すべき現実―

1. かつて音楽は「出版」で価値を得ていた

2000年代まで、音楽の価値は「出版」によって成立していました。
CDやレコードを購入する行為がそのままアーティストへの対価であり、さらにラジオやテレビの放送が、聴き手と音楽を結ぶ「偶然の出会い」の場を提供していました。

例えば、深夜ラジオからヒット曲が生まれることも珍しくなく、何気なくテレビから流れてきた楽曲が新しいファン層を獲得するきっかけとなりました。リスナーは偶然耳にした音楽に感情を揺さぶられ、「好き」「嫌い」という個人的な評価を通して音楽文化に参加していたのです。

ライブハウスもまた、インディーズ音楽の重要な「校閲空間」でした。そこでは多くのリスナーが同じ音楽を聴き、議論や批評を交わすことでアーティストの表現が鍛えられ、音楽文化全体の質を押し上げていました。

このように、かつての音楽は出版や発信の行為そのものが価値を生み、偶然性と批評性が文化を支える土台となっていました。


2. 配信時代と偶然性の喪失

しかし2025年の現在、音楽を取り巻く環境は大きく変化しました。
スマートフォンとイヤホンによる「個人的な聴取」が主流となり、アルゴリズムがリスナーの嗜好に合わせて音楽を提示します。

結果として、聴き手が接触する音楽は最初から「自分の好きなジャンル」に限定され、かつてのように思いもよらぬ偶然の出会いはほとんど失われました。さらにSNSの「いいね」や再生数といった指標が価値を決めるため、音楽が「聴かれる」よりも「拡散される」ことに重点が置かれています。

その構造は、アーティストが自らの作品を深めることよりも、「短時間で注目を集める」ことを優先させる方向に働いてしまいます。音楽の文化的・芸術的評価は、数字の前に押しやられているのです。


3. ストリーミングと出版文化の崩壊

音楽出版文化の崩壊を象徴するのが、ストリーミング時代の収益構造です。
かつては1枚のCDを購入すれば数千円がアーティストの収入につながりました。しかし、現在は1再生あたりの収益がごくわずかであり、数百万回の再生を得ても生活を支えるのは困難です。

そのため、多くのアーティストは「再生数を稼ぐこと」を目的化せざるを得なくなり、長い時間をかけて完成度を高める作品よりも、短いフレーズやリズムで瞬間的に注目を得る楽曲が優先される傾向が強まっています。

かつて「出版=価値」だった構造は完全に崩壊し、音楽は「消費されるデータ」として扱われる時代に突入しました。


4. TikTokとAI音楽がもたらした「断片化」

近年の音楽文化をさらに変化させたのは、短尺動画とAIです。
TikTokなどのSNSでは「楽曲全体」ではなく「一瞬の盛り上がり」が切り取られ、再生回数を稼ぐ手段として利用されます。これにより音楽は「聴き通す」対象ではなく、「映像の背景」や「一時的な演出」にすぎない位置づけになりつつあります。

また、AIによる自動作曲は、膨大な数の「似たような楽曲」を量産することを可能にしました。結果として、音楽はますます均質化し、表現としての差異や独自性を見出すのが難しくなっています。

ここには「音楽の断片化」という現象があり、文化的な深みや文脈を伴わない「消費される断片」としての音楽が主流化しているのです。


5. 音楽はどこで価値を持つのか

それでは、出版文化が崩壊した後の時代において、音楽はどこで価値を持つのでしょうか。
答えは「関係性」にあります。

現代において、音楽作品そのものが直接大きな収益を生むことは難しくなりました。しかしライブにおける体験、ファンとの交流、作品の背後にある物語や活動の意義は、依然として強い価値を持ち続けています。

例えば、あるアーティストがなぜ歌うのか、どのような背景を抱えて音楽に向き合っているのか――そうした文脈に触れることで、聴き手は単なるデータではなく「人間の表現」として音楽を受け取ります。

音楽は出版という仕組みの外でも、「人と人との関係性」「場を共有する体験」の中で新たな価値を獲得しているのです。


6. 表現者が直視すべき現実

2025年に音楽表現者が直視しなければならない現実は、次の3点に集約されます。

  1. 作品を発表するだけでは価値は生まれにくい
    公開する行為そのものが対価を生んでいた時代は終わりました。作品は文脈や関係性の中で初めて意味を持ちます。

  2. 批評や偶然の出会いが失われている
    アルゴリズムと閉じられた嗜好の中では、他者の批評が入り込む余地がありません。音楽文化の厚みをどう再構築するかが課題です。

  3. 存在理由を語る必要がある
    「なぜ歌うのか」「なぜ音楽を作るのか」を社会に対して言葉にすること。これが作品の評価やファンとの関係性を支える鍵となります。


7. 神宮前レコーディングスタジオから

当スタジオは、単に音を録る場所ではなく、アーティストが自身の存在理由や表現の背景を言葉にし、形にする場でありたいと考えています。

威圧でも放任でもなく、「沈黙させない環境」を提供すること。それが2025年における制作現場の最も重要な役割であり、音楽文化を次の世代へとつなぐための条件だと信じています。

👉 ご予約・お問い合わせは公式LINE(https://lin.ee/g3m9K6L)から承っております。


まとめ

音楽出版文化はすでに崩壊しました。
しかし、音楽そのものが価値を失ったわけではありません。むしろ今求められているのは、作品の背後にある物語や、アーティストとリスナーが共有する「関係性」こそが新しい価値を生むという認識です。

2025年の音楽表現者が直視すべき現実は、出版文化に依存せず、自らの存在理由を問い直し、言葉にし、聴き手と関係性を築いていくこと。その覚悟こそが、音楽を未来へとつなぐ道筋となるのではないでしょうか。


2025年8月19日火曜日

音楽を聴く場所が変わった時代に、私たちは何を失ったのか


 

音楽を聴く場所が変わった時代に、私たちは何を失ったのか

2000年代までの日本の音楽風景を思い出すと、そこには「お茶の間」という空間が確かにありました。テレビやラジオから音楽が流れ、スピーカーを通じて部屋全体を包み込む。その場にいる家族や友人は、意図せず同じ音楽を共有し、時に好みの一致や対立を通じて、自分の感性を確かめていたのです。偶然の出会いがあり、そこから音楽の発見や新しい価値観が生まれていました。

ラジオの深夜放送から思いがけないヒット曲が生まれることもありました。深夜特有のリスナーの熱気や、一体感の中で共有された音楽は、個人の趣味を超えて「時代の音」として広がっていったのです。そこには、偶然が織りなす出会いの力と、不特定多数の耳を通して音楽が評価される校閲性が存在していました。

同じことはインディーズ音楽文化にも言えます。ライブハウスという場では、音楽好きな人々が集まり、特定のバンドを初めて聴くことがありました。観客の歓声や批評がその場で飛び交い、ミュージシャンは他者の眼差しの中で成長していったのです。数多くの耳を経て、音楽の質が磨かれ、価値が確認されていくプロセスこそが、文化を豊かにしてきた背景でした。

しかし2025年の今、状況は大きく変化しています。音楽を聴くのはほとんどがスマートフォンを介し、イヤホンを通じた「個人的な空間」での体験となりました。さらにアルゴリズムによるレコメンドが、私たちの嗜好を狭めていきます。結果として、最初から「好きな音楽」しか耳に入らず、異なるジャンルや他者からの批評性が入り込む余地が極端に減ってしまいました。

これは便利で快適なように見えて、実は大きな変化を孕んでいます。かつてのような偶然性や批評性、そして「校閲の場」としての共同体が失われることで、音楽はますます個人の閉じた世界に収まりつつあるのです。そこでは、新しい価値観に触れる驚きや、耳の肥えた他者からの評価を通じた音楽の成熟といった経験が希薄になってしまいます。

音楽は本来、人と人をつなぎ、他者と共に味わうことで広がりを持ってきた文化です。その出会いの偶然性をどう取り戻していくか。あるいは、新しいテクノロジーの中でどのように再構築していくか。それは2025年の音楽シーン全体に突きつけられている問いではないでしょうか。

2025年8月18日月曜日

ストリーミング成長の鈍化と録音スタジオの役割


 

ストリーミング成長の鈍化と録音スタジオの役割

音楽を聴く環境は、この十数年で大きく変わってきました。サブスクリプション型のストリーミングが当たり前になり、作品が“所有”から“アクセス”へと移行したことは誰もが実感しているはずです。けれど今、その成長が少しずつ鈍化してきています。

当初の勢いのままに拡大していた市場が落ち着きを見せ始めたのは、ある意味で自然な流れとも言えます。しかし、この停滞はアーティストや制作現場にとって新しい課題を突きつけています。配信さえすれば誰かの耳に届く時代は終わりつつあり、そこに「どう個性を込めるか」が強く問われるようになっているのです。

スタジオで音を録ることの意味も、こうした状況で改めて浮かび上がってきます。AIが滑らかに再現する音楽や、過剰に補正されたボーカルでは表現しきれないのは、声の揺らぎや息づかい、楽器の不完全さがもたらす温度です。そうした「音の質感」は、作品に存在の証明を与えるものとして、今こそ価値を増しています。

また、ストリーミング収益の伸び悩みは、アーティストが表現と収益を結びつける回路を多様化させるきっかけにもなっています。配信だけに依存するのではなく、限定盤や特典、ファンとの直接的な交流を通じて音源を届ける動きは、より強い結びつきを生み出す方向へと進んでいます。そのとき、高音質で意図のこもった録音は、単なるデータを超えて“作品”としての重みを持つのです。

録音スタジオに求められるのは、補正によって整えることと、意図的に不完全さを残すことの両方を見極める判断力です。そしてもうひとつ、録音の過程自体をアーティストにとっての物語にすること。その経験は音源を超えて記憶に残り、作品の価値を支える要素になります。

ストリーミング市場の変化は決して危機だけではありません。むしろ、「なぜ、誰のために音楽をつくるのか」という根源的な問いを再確認する機会です。録音スタジオは、その問いに向き合うアーティストを支える場として、これからますます重要になっていくのではないでしょうか。

2025年8月17日日曜日

無菌化と表現のはざまで ― レコーディングスタジオに求められる倫理設計


 

無菌化と表現のはざまで ― レコーディングスタジオに求められる倫理設計

2025年、スタジオに重くのしかかる「責任」という言葉

2025年のレコーディング現場は、単なる音の記録ではなく「社会に残る証言」を作る場所へと変わりつつあります。
不適切な表現や不用意な発言が記録されれば、それはすぐに拡散され、制作者や関係者の立場まで揺るがすことになります。スタジオに求められるのは、技術力だけではなく、社会的責任を踏まえた制作判断です。

キャンセルカルチャーが突きつける現実

キャンセルカルチャーとは、著名人やアーティストの不適切発言・行動がSNSで批判され、活動の継続を困難にする現象です。
この流れは音楽現場にも及び、録音された言葉や表現が炎上の引き金になるケースも増えています。録音エンジニアは、単なる「記録者」ではなく、社会的な影響を見据えたゲートキーパーとしての役割を担わされているのです。

同席責任という新たなリスク

不適切な発言があったとき、問題は発言者本人にとどまりません。現場に居合わせたスタッフも「なぜ止めなかったのか」と責任を問われるようになりました。
この「同席責任」という考え方は、録音スタジオの運営に大きな影響を与えています。曖昧な態度や沈黙さえも、倫理意識の欠如として非難される時代になったのです。

不適切発言の制作管理と配信の難題

インターネット配信や収録コンテンツ制作においては、スタジオが「コンテンツを監督する立場」となることが増えています。
差別的な発言や攻撃的な表現が飛び出した際、それをそのまま配信するのか、編集で削除するのかは、表現の自由と社会的責任のせめぎ合いです。
エンジニアや制作者は「技術者」であると同時に「倫理的判断者」としての役割も担う必要が出てきました。

スタジオに求められる新しい倫理感

これら三つの論点――

  • キャンセルカルチャー

  • 同席責任

  • 不適切発言の制作管理

が交錯する中で、現代のスタジオには「責任ある自由」をどう設計するかが強く求められています。
無菌化された安全地帯に徹するのか、自由放任でリスクを抱えるのか。そのどちらでもなく、両者のはざまでバランスをとる柔軟な姿勢が必要です。

読者への問いかけ

音を録ることは、未来に証言を残すことでもあります。
ではもし、あなたがレコーディングの現場に立ち会ったとき、不適切とも取れる発言が飛び出したらどうしますか?
そのまま残すのか、削除するのか、それとも違う形で活かすのか――。

レコーディング現場の未来は、その判断ひとつひとつの積み重ねの先に広がっているのです。

2025年8月16日土曜日

役割の再定義が求められる時代に

 

役割の再定義が求められる時代に

かつてはテレビやラジオといった場で、ある程度「許されていた言動」が、現在では大きな問題として取り上げられることが増えています。当時はその空気の中で「役割を果たしている」と信じていた振る舞いが、時代を経て見直され、強い批判の対象となる。これは、芸能や放送の世界に限らず、広く社会の中で繰り返されてきた現象です。

ここで浮かび上がるのが「役割の再定義」という課題です。人が担う役割は、固定されたものではなく、時代の文脈や社会の空気感によって常に変化していきます。過去には最適解とされた行動が、今では「なぜ当時は受け入れられて、いまは許されないのか」という逆転現象を生む。そこにこそ、現代に生きる私たちが直面する難しさがあります。

音楽制作の現場もまた、この「役割の再定義」と無縁ではありません。以前は、ディレクターやプロデューサーが強い言葉でアーティストを導くことも珍しくありませんでした。時に威圧的であっても、それが結果として作品を形づくると信じられていたからです。しかし現代では、そのような関わり方は許されません。代わりに広がっているのは、別の種類の「沈黙」です。すなわち、助言も指針も与えず、曖昧な微笑みのまま進行を見守り、結果が出なければ静かに契約を終えるという空気感です。

この沈黙は、表面的には平和で衝突のない環境に見えます。しかし、アーティストにとっては「声をかけてもらえない」「方向性を示してもらえない」という孤立感を伴うことがあります。本来ならば、制作の場は表現者が自らの動機や存在理由を言葉にし、共に掘り下げていける場であるはずです。それを欠いたとき、現場はかえって冷たい空白となってしまいます。

つまり「役割の再定義」とは、単に過去と現在の価値観の違いを比較することではありません。むしろ、現代においては「威圧」でも「沈黙」でもない第三の関わり方――アーティストの声を奪わず、同時に孤立させない関係性のあり方を模索することが求められているのです。

制作の現場においては、沈黙を放置せず、安心して違和感や葛藤を語れる環境をどう作るか。それが、2025年という時代における大きな倫理的課題であり、音楽文化を次の世代につなぐための条件でもあるのだと思います。

2025年8月15日金曜日

存在の証明としてのカントリーミュージック 〜AI時代における音楽の「語り」と「温度」〜

 存在の証明としてのカントリーミュージック 〜AI時代における音楽の「語り」と「温度」〜

AI時代と音楽制作の現状

2025年、AIは音楽制作において当たり前の存在となりました。ビートメイク、コード進行、歌詞生成、仮歌――これらは数クリックで可能になり、誰もが“音楽らしいもの”を作れる時代です。

しかし、ここで問うべき大切なテーマがあります。
「この曲は、誰の存在を証明しているのか?」

カントリーミュージックが揺るがない理由

カントリーミュージックは、シンプルな3コードや4分の4拍子を中心にした構成で、AIにとって模倣が容易なジャンルです。それでもなお、AIに完全には置き換えられません。その理由は「語り」と「温度」にあります。

  • 語り:父を亡くした夜の出来事、故郷を離れた娘の手紙、教会で見た夢…誰かの人生そのものを歌うこと。

  • 温度:声の揺らぎやギターのノイズなど、不完全さに宿る体温。

これらは、アルゴリズムでは再現できない人間の痕跡です。

AIと人間の役割分担

AIはコード進行の補助や仮歌の生成など、技術的な部分では優秀です。しかし「なぜ歌うのか」という動機や物語は、人間しか持ち得ません。だからこそ、AIと人間の役割を見極めることが重要になります。

音楽は存在の証明である

カントリーミュージックは「存在の証明」です。
誰かが、誰かとしてこの世界にいたという痕跡が、歌と声に宿る。その魂こそが、AIに代替できない価値なのです。

まとめ

AIが進化する今だからこそ、問い直すべきは「なぜ、その歌を、今、歌うのか」。その問いを抱えて生まれる音楽は、AIでは決して置き換えられない存在証明となり、未来へと残り続けます。

2025年8月14日木曜日

日本と海外の録音文化の違い――無菌性とテクスチャーをめぐる2025年の考察

 

日本と海外の録音文化の違い――無菌性とテクスチャーをめぐる2025年の考察

録音スタジオや出張録音の現場では、常に「完璧さ」と「偶然性」という二つの価値観がせめぎ合っています。
2025年の現在、日本と海外ではそのバランスの取り方に明確な違いが見られます。ここでは、日本と海外の録音文化を比較しながら、その背景にある社会的要因について考察します。

海外の録音文化は「テクスチャー」を重視

海外のレコーディング現場では、ライブ収録やルームアンビエンスを積極的に取り入れる傾向があります。多少のノイズや不均一な響きも「リアルな証拠」として肯定され、音楽のオーセンティシティ(真正性)を支える要素と考えられています。
これはジャズやロック、ヒップホップなどが社会的・文化的な運動と結びついて発展してきた背景に由来しています。

日本の録音文化は「無菌性」を優先

一方、日本の録音文化では補正や編集を前提とした作業が一般的です。
音程修正、リテイクの積み重ね、質感を統一するプラグインなどを駆使し、完成度の高い「無菌のサウンド」を作り上げることが重視されます。
その背景には「聴き手が完璧なパフォーマンスを期待する文化」が存在し、SNSや評価経済の影響によってさらに強化されています。

2025年に浮かび上がる課題

海外ではホワイト社会的な評価経済が進む一方で、「不完全さを愛する姿勢」がカウンターとして残り、両者のせめぎ合いから新しい音楽的価値が生まれています。
日本では無菌性が文化的に優勢であるため、対立自体が成立しにくく、新しい価値が芽吹きにくい状況です。

まとめ

録音文化における「無菌性」と「テクスチャー」の選択は、単なる音作りの問題ではなく、社会や文化がどのような美意識を持つのかを反映しています。
2025年のいま、両者のバランスをどう取るのかが、エンジニアやアーティストにとって大きなテーマとなっています。

2025年8月13日水曜日

日常と非日常の交差点から生まれる音楽

日常と非日常の交差点から生まれる音楽

録音スタジオという場所は、常に二つの顔を持っています。日常的な営みの延長として存在する一方で、扉を開ければ日常から切り離された「非日常の空間」としての機能も持ち合わせています。

家庭で歌い慣れた声も、仲間内で遊び半分に作ったビートも、スタジオに持ち込まれた瞬間、それはただの生活音ではなく作品の素材となります。ここではマイクの前での一呼吸が大げさな演出へと変わり、日常がまるで舞台に上がるように姿を変えるのです。

しかし、完成した音源がリスナーのイヤフォンを通じて街角に溶け込むとき、その作品は再び日常へと還元されます。朝の通勤電車で聴かれるかもしれませんし、夜の散歩のBGMになるかもしれません。非日常の場で編まれた音は、こうして私たちの日常に寄り添い続けるのです。

この循環は、日本においても海外においても変わらぬ普遍性を持ちながら、文化的な厚みを形づくってきました。特にイギリスのパブロックがそうであったように、「日常の場」がそのまま音楽の新しい文化の発火点となることもあります。一方で日本では、日常と音楽文化の接点が「学校行事」や「趣味の延長」に限定されがちで、そこから新しい潮流が生まれることは多くありません。その分、スタジオの役割はより重要になっていると感じます。

音楽は、特別な人だけのものではありません。日常の声や感情がスタジオという非日常の場を通して形になり、再び生活へと戻っていく。その循環の中にこそ、私たちが共有できる喜びや文化の芽があります。

神宮前レコーディングスタジオは、その循環を支える交差点でありたいと願っています。大げさな夢でなくても構いません。生活の一部としての歌や言葉を持ち込んでいただければ、私たちは丁寧にそれを受けとめ、形にするお手伝いをいたします。

「日常を非日常に変換し、非日常を日常へ返す」
その営みの積み重ねが、未来の音楽文化を少しずつ育てていくのだと信じています。

そして最後に、こんな問いを残したいと思います。

あなたにとって、音楽は日常でしょうか?それとも非日常でしょうか?

その答えを探す時間そのものが、音楽の持つ豊かさなのかもしれません。

2025年8月12日火曜日

神宮前レコーディングスタジオ 環境・倫理ポリシー

 神宮前レコーディングスタジオ

環境・倫理ポリシー

神宮前レコーディングスタジオは、音づくりを通じてお客様に最高の体験をご提供すると同時に、環境保全と倫理的な責任を果たすことを大切にしています。
以下の方針に基づき、持続可能で人間性のある音楽制作を追求してまいります。


1. 人間性を大切にした音づくり

AI音声や自動処理技術の活用を進めつつも、人間の声や演奏が持つ温かみや個性を尊重します。
完全に整いすぎた音ではなく、呼吸や感情の揺らぎといった「人らしさ」を残すことで、作品に深みを与えます。


2. 音質と表現力の両立

ノイズ削減や補正技術は必要に応じて用いますが、過剰な処理によって表現の熱量や臨場感を損なわないよう配慮します。
音の美しさとリアリティのバランスを重視します。


3. 環境負荷の低減

省電力性能の高い機材や長期使用可能な設備を積極的に導入し、スタジオ運営における環境負荷を軽減します。
廃棄物削減、再利用可能な資材の活用など、持続可能な運営を心がけます。


4. 倫理的な制作姿勢

制作に関わる全てのプロジェクトにおいて、著作権・肖像権をはじめとする各種権利を遵守します。
また、お客様や関係者の声を尊重し、安全かつ誠実な制作環境を提供します。


5. 継続的な見直しと改善

技術や社会の変化に応じて、本ポリシーを定期的に見直し、より良い形へと改善してまいります。


神宮前レコーディングスタジオは、音楽制作を通して、環境・人間性・社会的責任の調和を実現し、お客様と共により良い未来を築いていきます。

2025年8月11日月曜日

環境・倫理視点の台頭──音と人間性のバランスを探る時代へ

 環境・倫理視点の台頭──音と人間性のバランスを探る時代へ

2025年、サウンドエンジニアの世界では、単に技術力を高めるだけでは不十分な時代に入っています。現場で今、注目されているのは「環境」と「倫理」という二つの視点です。AI音声や声優との共存、職人的なノイズ削減など、これまでとは異なる基準での判断や配慮が求められています。

AI音声の利用は急速に広まり、短納期や大量制作を必要とする場面ではすでに重要な役割を果たしています。しかし一方で、感情や表現の微妙なニュアンスを必要とする作品では、人間の声にこそ価値があると考えられています。呼吸の間や声の揺らぎといった、完全には整っていない部分が、作品に温かみをもたらすのです。

ノイズ削減の技術も進化していますが、その使い方には注意が必要です。あまりにも音をクリーンにしすぎると、演奏や歌の中にある熱量まで削ぎ落としてしまうことがあります。ときには、わずかな環境音がリアリティや臨場感を引き立てることもあります。現場では、音の美しさと人間らしさの両方を大切にするバランス感覚が欠かせません。

さらに、環境配慮の意識も広がっています。電力消費を抑える機材や、長く使える設計の機器が選ばれる傾向にあり、スタジオ運営そのものにも持続可能性が求められています。音を生み出す場所としてのスタジオが、社会全体の環境負荷軽減にも貢献することが、今後の信頼やブランド価値につながっていきます。

これからのサウンドエンジニアには、録音や編集の技術だけではなく、倫理的な判断や環境への配慮を含めた総合的な感覚が必要です。音のクオリティと人間性、そして社会的責任。その三つをどう調和させるかが、新しい時代のエンジニアにとっての大きなテーマになっているのです。

2025年8月10日日曜日

K-POPとJ-POPの2025年型二極化・迷走構造

 

K-POPとJ-POPの2025年型二極化・迷走構造


2025年の音楽シーンを俯瞰すると、K-POPとJ-POPはともに揺らぎの只中にありますが、その性質は異なります。K-POPは主に構造的な経済問題、J-POPは文化的なアイデンティティの迷走に直面しているのです。

K-POPの変化を象徴する出来事のひとつが、2025年8月に発表されたガールズグループ「Purple Kiss」の活動終了です。所属事務所RBWは財政難を理由に挙げました。グループはSNSや配信で一定の存在感を保っていましたが、従来型の収益モデル、すなわちフィジカル販売・ワールドツアー・ファンミーティング・グッズ販売といった多層的な収益源の維持が困難になったとみられます。実際、韓国文化体育観光部が発表した2024年のK-POP輸出額は前年比で伸びてはいるものの、その成長率はコロナ禍後の反動期に比べ半減しており、特に中小事務所の利益率低下が顕著です。制作費はグローバル市場を意識した高品質MVや振付、楽曲提供者の国際的起用により膨らみ、マーケティングコストも上昇。結果として、資本力のある大手3社(HYBE、SM、JYP)と、それ以外の生存率の差が急速に拡大しています。

一方、J-POPの揺らぎは経済構造というより文化的な迷走に根ざしています。近年、国内アイドル市場では「懐古路線」の台頭が顕著です。1980〜90年代の楽曲スタイルや衣装を引用した新規ユニットや、昭和歌謡リバイバル企画が増加しており、SNSでの一時的な話題化には成功しています。しかし、その多くはファン層が限られ、長期的な支持に結びつきにくい傾向があります。加えて、生成AIの進化により、ボーカルや作曲の一部をAIが担うケースが増加し、制作期間は短縮されたものの、「人間らしい作風」や「偶発性のある楽曲構造」が減少。SpotifyやTikTokなどでのバイラルヒットは起きやすくなった一方で、音楽ジャンルとしてのJ-POPの輪郭は曖昧になりつつあります。

両者に共通するのは、偶発性の欠如と短期消費化です。SNS・配信プラットフォームのアルゴリズムは、再生数・エンゲージメント率を最大化する傾向に最適化されており、結果的に似通った構成・音色・尺の楽曲が増加。これは1960〜70年代の音楽シーンに見られた実験性や、偶然の産物としての名曲誕生を難しくしています。

このような背景から、2025年の音楽産業は二極化しています。K-POPは資本集約型の大手がグローバル市場を独占し、中小規模は撤退や縮小を余儀なくされる。一方でJ-POPは、マス的な存在感を失いつつも、ローカルなコミュニティやSNS局所バズに依存して延命する。ライブ動員においても、大規模アリーナツアーは過去最高水準を維持する一方、キャパ300〜500人規模のライブハウスは回復が鈍く、赤字公演が増えているという報告もあります。

今後を展望すると、K-POPの中小事務所は制作規模を縮小し、オンラインファンミーティングやNFT的なデジタルグッズ販売といった低コストの収益源に移行する動きが強まるでしょう。J-POPは、AIによる制作の効率化を逆手に取り、人間の演奏や手作業ミックスなど偶発性を意図的に再導入することで差別化を図る必要があります。どちらのシーンにおいても、アルゴリズムが生み出す最適解から少し逸脱した「人間的ノイズ」を、あえて構造に組み込むことが、今後の生存戦略の鍵になると考えられます。